2019年4月30日火曜日
霜月蒼 『アガサ・クリスティー完全攻略〔決定版〕 』
ウェブの連載だったときにちらちら見ては面白いなあと思っていた記事がまとまって、2000円オーバーの単行本になったとき、内容はある程度面白いのわかっていただけに、腹が立った本。当時思ったのはなぜに800円くらいで早川から出さないのかだったのだが、みんな同じ事を考えたのか、文庫はクリスティー文庫に入った。でもって現在、クリスティー文庫のキンドル版は全品半額セール中(五月二日まで)。クリスティーは読むと面白いのだけど、いかんせん量が半端ないもんだからと日頃はあまり手を出していないのだけど、半額だってんだったらいい機会だ、何冊か買って読もう。まずはブックガイドのこれを買おうとダウンロードし、ざざざっと通読した。
本レビューを読みに来る人もおれと同じことが知りたいのだろうと勝手に決めつけて、目次の★評価がマックスの5つになっている奴をまずは並べておく。
ポワロ長編
・死との約束(amazon)
・白昼の悪魔(amazon)
・五匹の子豚(amazon)
・葬儀を終えて(amazon)
・カーテン(amazon)
ミス・マープル長編
・ポケットにライ麦を(amazon)
・鏡は横にひび割れて(amazon)
・カリブ海の秘密(amazon)
トミー&タペンス長編
・NかMか(amazon)
短編集
・謎のクィン氏(amazon)
・死の猟犬(amazon)
戯曲
・検察側の証人(amazon)
ノンシリーズ長編
・春にして君を離れ(amazon)
・終りなき夜に生まれつく(amazon)
上記作品はすべて『アクロイド』(4.5)『オリエント急行』(4)『ABC』(4.5)『そして誰もいなくなった』(4.5)よりも評価が高いわけだから読んで損はないだろう、ピンと来るタイトルのリンクから商品ページへ飛ぼう。
さて、飛んだ人に対しては本エントリーの役目は終わったわけだけど、飛ばなかった人には本書の★は信用できるのかって問題が出てくる。最終的に著者の感覚との相性がどうかにかかってくるのは当然として、少なくとも本文の紹介文を読んでもいいんじゃないか程度には信用できると思う。理由は二つある。ひとつめとしては、これが単独著者による全作レビューであるということ。複数著者がごちゃごちゃやっていると、それぞれの著者が担当した作品しか読んでない可能性も考えなければいけないが、本書はそうではないため、少なくとも一定の基準における相対的な出来不出来ははっきり見えるので、趣味以前の評価になっているものは安心して省くことができる。ふたつめには、全作絶賛みたいな提灯持ち本と本書は一線を画している。「読まなくていい」という評価も複数に下されているし、政治関係の語りをめぐってはクリスティーの「リベラリズムへの理解が浅い」という批判もあった。そして、ほんと驚いたことに、ある作品については、ヘイトスピーチだと断じ、クリスティーが「差別主義」を「ヒロイズムとして描いた」とまで書いているのだ。ミステリー界隈で「ヘイトスピーチ」って単語が出てくると、数年前にこの単語を「悪口」の意味で使ってた評論家のツイートとか思い出して、意味わかって使ってるのか心配になるわけだけど、その作品のレビューを見る限り、まんまヘイトで「やっちまったな、クリスティー」って感じだった。世の中にはヤフー知恵袋を無断引用したような本でも褒めてしまう提灯持ちがいたりするわけだけど、そういう輩と著者は一線を画している(っていうか、早川書房もよくこれをこのままクリスティー文庫に入れるって判断したね……大した話じゃないと思ったのかな)。ゆえに、褒めている作品も褒めるに値するから褒めているのだと信用できると考える。
で、ここが本書の長所だと思うんだけど、褒めてるレビューを読むとさ、これがもう畳みかけるように「読め! 読め!」って煽ってくんの。直接そう言うわけじゃないし、もちろんネタバレは回避しながらなんだけど、読まずにいられようかって気分にさせられた本がずいぶんあった。頭のなかでは能のキャラクター太郎冠者、次郎冠者が「そーれ、煽れ煽れ」「煽るぞ煽るぞ」って言い交わしてる絵が浮かんだくらい。やりすぎて失敗してると感じた作品もあったけど、概ね評価高いやつのコメントはこっちの読んでみようかなな気持ちに火をつける秀逸なレビューになっている。でもって、それを積んでいくうちにクリスティー=トリックメーカーとかポアロ=高慢で嫌な奴とかという定説を覆しにかかって、新しいイメージを提示してもいる。ブックガイドメインの本ではあるけど、それだけじゃなくてクリスティー作品の評論としても機能していると感じた。もちろん第一の存在理由はブックガイドでこれからクリスティーに触れる人への本なのは間違いないが、クリスティーを読破してるような人に、新しいクリスティーの語り方を提案してもいるという射程の長い作品だった。読み終わったときに満足感を覚える人も結構多いのではないか(もちろんそれ以上に全作品の著者ベストテンに文句を言う人は多いだろうけど、それでも)。
2019年4月29日月曜日
柴田宵曲 『子規居士の周囲』
さきに子規の生涯(『評伝 正岡子規』)を書いた柴田宵曲(1897―1966)は、ついで子規とその門人との交渉を「子規居士の周囲」にまとめた。新たに同書に採り上げなかった人物で、今は披見されることも少なくなった、篤実にして炯眼を具えた八家の門人の子規との交流及び俳句に触れた「明治俳壇の人々」を併載した。(解説=小出昌洋)目次
- Ⅰ子規居士の周囲
- はしがき
- 子規居士の周囲
- 内藤鳴雪
- 愚庵
- 陸羯南
- 夏目漱石
- 五百木飄亭
- Ⅱ 明治俳壇の人々
- 数藤五城
- 阪本四方太
- 今成無事庵
- 新海非風
- 吉野左衛門
- 佐藤紅緑
- 末永戯道
- 福田把栗
本屋入ったら棚にあったからそのまま購入して読んだんだけど、『評伝正岡子規』(amazon)を未読だからなのもあり、普段よりも読み通すのがダルかった。これは著者の手元にあった資料の量がほかの著作と比べて多かった(と思う)のも関係しているかもしれない。ここまで読んできたイメージで離すと柴田宵曲はあまり構成美のある随筆家ではなくて、どちらかといえば筆の向くままに知ってることを並べていくようなスタイルの著述をする。それが今回は裏目っているんじゃないかと思った。各章これといった山があるわけでもなく、一人ひとりの章が長く感じられた。本書には取りあげられていないけれども、子規の弟子筋に寒川鼠骨という人がいて宵曲は鼠骨の弟子筋のようなので、あっちこっち門が立たないような工夫を施している可能性もあり、普段より退屈したのはそのせいもあるのかもなどという邪推も働いた。まあ、これだけ読んでいれば相性のよくない作品に出くわしても不思議じゃないというか、よく今まで気分よく読めるもんばかり引いていたものだと考えるほうが当たり前なんだろう。そんなわけでこれに関してはあまりぴんと来なかった。
子規居士の周囲 (岩波文庫)
2019年4月21日日曜日
柴田宵曲 『随筆集 団扇の画』
未刊行だった随筆をまとめた作品。全体3部に分かれる。先に目次を出しておく。
Ⅰ
月と人
木瓜の連想
狂言の茶
奇蹟
陰徳陽報譚
灯火浪舌
鼠遁
放鳥
のざらし
別天地
からいぬばなし
騙術
碁
団扇の画
からさけ大明神
杜子春
Ⅱ
田楽――鴫焼き
鰆の鮓
甘藷
桑の実
きんとん
氷水
氷水の句
Ⅲ
鳶魚翁
若樹翁
竹清大人
追懐一片――山崎楽堂氏
落葉画伯
残光
香取先生
香取秀真先生の著書
無始無終
読みどころは恐らくⅢと銘打たれた追悼文集。「落葉画伯」と「残光」はともに岡落葉について語っている。最後の「無始無終」は寒川鼠骨の思い出。どれも読み応えはあるが、まとめられると少し腹に思い感じがした。Ⅱとされた部分は食べ物縛り。Ⅰはフリーテーマ。自分はⅠの「奇蹟」がとても気に入った。天竺冠者、伊勢福どのという奇蹟を行う人物の話を取りあげて、どちらもまあ種があり、それがバレて破滅するんだけども、
殊にわれわれの興味を感ずるのは、天竺冠者にしても、伊勢福にしても、一般に知られる前に博奕打なり狐なりの一味徒党があって、この者どもが奇蹟の対象になり、その結果多数の人々がこれに赴くに至る点である。と指摘し、重病人を治してみせるパフォーマンスにサクラがしこまれていたことを取りあげる。
とにかくこういう手合(てあい)が立(たち)どころに平癒する実例を示さなければ、衆愚といえども長く欺くわけに行かぬであろう。世間の人の信仰は赫奕(かくえき)たる本尊(ほんぞん)の光に打たれるばかりでなく、その影法師(かげぼうし)の動きによっても或(ある)程度までは支配される。信者の中の名士の顔触(かおぶれ)が、新宗教の運命に有力な関係を持つのはこのためである。おれがこのくだりを読んだ時に思い出したのは、2012年の政権発足直前、「アベノミクス」だってかけ声とともに株価が一気に上昇したことだった。あのときもきっと影法師が仕事をしたんだろう。でもって、博奕打でも狐でもなく、メディアがその奇蹟を吹聴した結果、「多数の人々がこれに赴く」に至ったわけだなと。なんてタイムリーなことを書いてくれているんだろうと感心した。初出を見ると雑誌『知と行』昭和25年3月発行号とある。そうすると執筆は昭和24年終わりから25年始めくらいだろうか。当時こういう随筆を書きたくなるような事件があったんだろうか、と検索してみたら、光クラブ事件(ウィキペディア) が前年に起きていた。首謀者の山崎晃嗣が自殺したのは11月24日とある。
彼らが今日までその名を伝えているのは、成功しかけて失敗した――失敗の仕方にあるのかもわからない。という末文は、山崎を念頭に置いたものだったのかもしれない。
でね、これ、すっごい気に入って、長さもよくみりゃ5ページちょっとだし、柴田宵曲の著作権は切れているし、いっそKDPしたらどうだろうと閃いて、ポチポチ入力して、ほかの随筆四本(2本は本書から、2本は『俳諧博物誌』(感想)から選んだ)をくっつけて先日、KDPをしてみた。題して『奇蹟:柴田宵曲随筆選』
奇蹟: 柴田宵曲随筆選
定価99円で販売中なので、気が向いたらぜひ。
ただし上に上げた追悼文や表題作「団扇の画」(正岡子規の『病牀六尺』をフックに団扇をめぐる話を展開する。もちろん団扇を使った俳句もたくさん出て来る)は入れなかったので、あくまでも軽く柴田宵曲に触れてみたい人向き。できれば、この『団扇の画』なり『俳諧博物誌』なりのほうを読んでもらいたいなあというのが本音だったりする。
そうそうそれと、柴田宵曲はふんぞり返らない澁澤龍彦というイメージでずっといたのだけど、本書の最後で編者解説を読んでいたら、こんな記述にぶつかった。
右諸篇の柴田さんの署名は、概(おおむ)ね柴田宵曲を以てしている。ついで羅漢柏が最も多いけれども、私は柴田さんほどの筆名を持つ人を知らない。さように多くの筆名を使って書かれた柴田さんがあったという一事をも、考えていいように思われる。次にその署名を知られるままに、列記して置こう。といって、挙げられた筆名じつに17。あれこれのペンネームを使ったと言われると、連想はペソアに行く。編者の言うように、これは「考えていいように思われる」一事だなあと思ったのだった。
随筆集 団扇の画 (岩波文庫)
2019年4月18日木曜日
川島高峰 『流言・投書の太平洋戦争』
戦時下、前線に赴く兵士を見送った家族が死守した銃後の本土日本。深刻な食糧不足や激化する空襲のなか、人々は何を考え、何を感じていたのか。厳しい言論統制を行い、国民の日常会話も監視した治安当局は、民衆の流言蜚語や不穏投書を克明に記録した。『特高月報』等のこれら治安史料と日記を駆使し、庶民の心情と実態に迫る異色の戦時下日本の歴史。目次
- 序 禍害と被害――記憶の十字交差を越えて(読書メモ)
- 第一章 「開戦」と日本人
- 第二章 戦争の長期化
- 第一節 戦争熱の冷却(読書メモ)
- 第二節 ガダルカナル「転進」と「大本営発表」
- 第三節 忠誠と不敬の間
- 〈コラム〉「太平洋戦争」の常識について①
- 第三章 山本五十六の戦死
- 第一節 戦局の熾烈化を知る
- 第二節 世相の悪化
- 〈コラム〉「太平洋戦争」の常識について②
- 第四章 サイパン政変
- 第一節 戦局悲観へ
- 第二節 小磯内閣と「世論指導」
- 〈コラム〉「太平洋戦争」の常識について③
- 第五章 空襲と戦意
- 第一節 東京大空襲
- 第二節 焼け跡社会
- 第六章 焦土の中の民衆
- 第一節 世相悪化から治安悪化へ
- 第二節 “一億玉砕”へ
- 第七章 玉音放送直後の国民の意識
- 第一節 「忠良ナル爾臣民ニ告ク」
- 第二節 「現実」への対応
- 原本あとがき
- 学術文庫版によせて
- 資料 太平洋戦争関連地図
- 「宣戦の大詔」
- 参考文献
親本が読売新聞社から発行されたとは今からじゃ信じられない本。いやあ、おっかねえわ。開戦から玉音放送直後までの民衆の声ってやつをあれこれの史料から引っぱって当時の再構成を試みているんだけど、フェイクを鵜呑みにする感じとか、世間の常識と現実が合わないときに世間の常識についていることを確認して思考停止するところとか、人災を天災扱いするところとか、お上が無策でひたすら民衆にポジティブさを要求するところとか、今読むとわかりすぎて嫌だ。当然のごとく版は切れているので買っといてよかったなあと思った。石原慎太郎が「戦時中の日本人は美しかった」とか昔抜かしたことがあったけど、ありゃ家がよほど裕福だったか、年取って記憶が改ざんされたかどっちかだね。で、『国体論』(感想) と合わせて考えると、たまに言われる「焼け野原になるまでわからない」ってフレーズも実は間違ってて、「焼け野原になってもわからない」が正解みたい。先行き暗いなあ。
とりあえず、先に最後の「降伏直後の反応」ってアメリカ戦略爆撃調査団のアンケート調査の結果だけ引いておく。
後悔・悲嘆・残念 三〇%「天皇陛下に申し訳ない 四%」ってのは、今だったら狂信的政権信者に該当する数字だと思うんだけど、教育勅語だ現人神だって国を挙げて洗脳かけても四%しか理想的臣民(これ、理想的臣民でしょ)にならないというのに、戦争の反省にたって作られたはずのカリキュラムで政権盲従者が今みたいな割合でいるって現実突きつけられると、戦後ってのはいったいなんだったんだろうって気分になる。いや、ほかのデータもほんとに、「うわ、今戦争始まったらこうなるでしょ」って感想持つようなものがたくさんあるんだよ。そうなってくると、おれらって平和主義の民主主義国なんかで育ったんだろうかという疑問がどうしても浮かんでくる。この四%が四〇%だったら、そんなふうに思わずにいられたのになあ。
驚き・衝撃・困惑 二三%
戦争が終わり、苦しみも終わりだという安堵感または幸福感 二二%
占領下の扱に対する危惧心配 一三%
幻滅・苦しさ・空虚感、勝利のためにすべてを犠牲にしたが、すべて無駄だった 一三%
恥ずかしさとそれに続く安心感、後悔しながらも受容、予想されたが、国史上における汚点と感じる 一〇%
予期していた、こうなるとはわかっていたとの観念 四%
天皇陛下のことが心配、天皇陛下に恥ずかしい、天皇陛下に申し訳ない 四%
回答なし、またはその他の反応 六%
合計一二五%
(二つ以上の反応を示した人もいたため、合計は一〇〇%以上となる)
この本320ページくらいあるんだけど、抜いておきたいところが色々あるので、後日追記していくつもり。
流言・投書の太平洋戦争 (講談社学術文庫)
2019年4月16日火曜日
白井聡 『国体論 菊と星条旗』
天皇とアメリカツイッターで話題だった本。第一印象は「すげえタイトルだな、おい」。アマゾンに掲載されている永江朗の書評が本書の内容をコンパクトにまとめているので、引用してみる。
誰も書かなかった日本の深層!
明治維新から現在に至るまで、日本社会の基軸となってきたものは「国体」である--。
象徴天皇制の現代社会で「国体」? それは死語ではないのか? 否、「国体」は戦後もこの国を強く規定している。一九四五年八月、大日本帝国は「国体護持」を唯一の条件として敗戦を受け容れた。ただし、その内実は激変した。「戦後の国体」とは、天皇制というピラミッドの頂点に、アメリカを鎮座させたものなのだ。
なぜ、かくも奇妙な「国体」が生まれたのか。「戦後の国体」は、われわれをどこに導くのか。『永続敗戦論』の白井聡による、衝撃作!
国体。もちろん国民体育大会のことではない。国家体制、あるいは、天皇を頂点とした国家という理念である。そんなものは敗戦とともに消滅したのでは?なんて思ったら大間違い。いまもしっかり生きていて、日本人を縛っているのだと白井はいう。正直に言えば、新しくもない話にも思える。小泉純一郎が世界のどこよりも早くアフガンへの報復を支持すると言ったとき、いや、もっとまえの第一次湾岸戦争でどちゃどちゃ戦費をアメリカに献上しながら「普通の国みたいに軍隊派遣できなくて恥ずかしい」とか言ってた頃には、日本で一番偉いのはアメリカなんでしょという体感は存在していたと思うのだ。著者がその体感に言葉を与えたいと思うのにはきっかけがあった。それが2016年8月8日のお言葉だ。って言ってこんなんあと二年も経ちゃ日付からなんのことかわかるなんて人ほとんどいなそうなんで、後世のために解説するとこの日、天皇が「退位させてくれ(大意)」とテレビ放送で訴えたのである。それを見た著者は「今上天皇の今回の決断に対する人間としての共感と敬意」を覚えた。
かつて頂点にいたのは天皇だったが、戦後はそのポジションにアメリカが就いた、と白井はいう。明治維新から敗戦までの天皇と国民の関係。敗戦から現在までのアメリカと日本の関係。両者がそっくりであることを、歴史を追って論証していく過程がスリリングだ。
その共感とは、政治を超えた、あるいは政治以前の次元のものであり、天皇の「私は象徴天皇とはかくあるべきものと考え、実践してきました。皆さんにもよく考えて欲しいと思います」という呼び掛けに対して応答することを筆者に促すものである。応答せねばならないと感じたのは、先にも述べた通り、「お言葉」を読み上げたあの常のごとく穏やかな姿には、同時に烈しさが滲み出ていたからである。そして、著者は「お言葉」を次のように解釈する。
それは闘う人間の烈しさだ。「この人は、何かと闘っており、その闘いには義がある」――そう確信した時、不条理と闘うすべての人に対して筆者が懐く敬意から、黙って通り過ぎることはできないと感じた。ならば、筆者がそこに立ち止まってできることは、その「何か」を能う限り明確に提示することであった。
敗戦国で「権威ある傀儡」の地位にとどまらざるを得なかった父(昭和天皇)の代に始まった象徴天皇制を、烈しい祈りによって際賦活した今上天皇は、時勢に適合しなくなったその根本構造を乗り越えるために何が必要なのかを国民に考えるよう呼び掛けた。
もしこれに誰も応えることができないのであれば、天皇制は終わるだろう。現に国民が統合されておらず、統合の回復を誰も欲してさえいないのならば、「統合の象徴」もあり得ないからである。あるいは、アメリカが天皇の役をやってくれて、それでいいのであれば、日本の天皇など必要ないからである。
われわれがそのような岐路に立っていることを、「お言葉」は告げた。
かくして、本書は、その「岐路」の本質を見極めるために書かれた。著者の現状認識は以下のようなものだ。
「戦前の国体」が自滅の道行きを突っ走ったのと同じように、「戦後の国体」も破滅の途(みち)を歩んでいる。「失われた二〇年」あるいは「三〇年」という逼塞状態は、戦後民主主義と呼ばれてきたレジームの隠された実態が「国体」であったがためにもたらされたものにほかならない。そして、その視角から明治から敗戦までと戦後の二つの「国体の歴史」(形成・発展・崩壊)の叙述を試みていく。その筆致、解釈はときに危うい感じを覚えさせつつも、評判通りにスリリングだった。
その果ての破滅が具体的にどのようなかたちで生ずるかは、不確定要素が多いため、誰にも確言はできないだろう。だが、そうした予言の類は、現状認識を鍛え上げるうえでさして重要ではない。真珠湾攻撃当時の日本が戦場では勝利していたにもかかわらず本質的には破滅していたのと全く同じ意味で、われわれの社会はすでに破滅しているのであり、それは「戦後の国体」によって規定されたわれわれの社会の内在的限界の表れである。
ただし、本書の読みどころは、少なくとも最大の読みどころは、その手際ではない。いや、それもなかなかのものだと思うんだけど、一読者として一番印象に残ったのは、熱さ、つまりは現状に対する怒りである。たとえば次のような箇所にも怒りがしっかり乗っている。なぜこれほど異様な対米従属をしているのかという問いへのあれこれの言い分(「東西対立における日本防衛」「自由世界の防衛」「『世界の警察』による『正義』の警察行為のため」「中国の脅威」「暴走北朝鮮の脅威」)を並べたあと、このように理由が二転三転するのは、すべて真の理由でないことを物語っているとして次のような結論を読者に叩きつける。
対米従属の現状を合理化しようとするこれらの言説は、ただひとつの真実の結論に決して達しないための駄弁である。そしてそのただひとつの結論とは、実に単純なことであり、日本は独立国ではなく、そうありという意志すら持っておらず、かつそのような現状を否認している、という事実である。
感情が乗っているだけに、読む方もドキッとする。
もちろん、現政権やその支持者に対しても容赦はない。今の中年知識人なんてお上に怒ったら負けみたいな価値観刷り込まれて、せいぜいが「やれやれ」って溜め息つく程度のことしかできない腰抜けばっかりというだっらしねえ状況+総理礼賛本書きゃ犯罪ももみ消されるし、逆に総理馬鹿にしたと見なされりゃ国会に呼ばれるっていう80年代だったら漫画か何かの話みたいな状況のなか、安倍を暗愚と断じ、その支持者を奴隷と言い切り、アメリカが戦後日本人に与えた政治的イデオロギーの核心は、自由主義でも民主主義でもなく「他のアジア人を差別する権利」にほかならなかったと書くのは、さぞ勇気が要ったことと思うが、それだけ著者の怒りは深いのだ(あと、たぶんだけど、担当編集者も同じ気持ちだったんじゃないかと思う。じゃないとこれ手直ししてくれって話になったと思うんだよね)。自分はこの著者の怒りに大いに共感した。『歪む社会』(感想)でリベラルも3000円の研究書じゃなくて800円の新書をバンバン出すべきみたいなことが言われていたと記憶するけれども、ジャンルは少し違うものの、本書は格好のモデルを提供すると思う。
それとは別に、本書を読んでいて、数年来の疑問が解けた箇所があった。何年かまえ、日本は教育に金をかけないという話題があったときに、あれにもこれにも金をかけないという話を聞くのだけど、どこに金注ぐかっていうのはどんな国かを表す指標だよなと、経済が専門の友人に国際比較したときにGDPの割合が突出して高くなる分野はなんなのかと尋ねたことがあった。そうしたら返ってきた答えは「わからない」だった。なんだそりゃと思ったんだが、専門家がわからないというのだから、素人にわかるはずもないとそれ以上調べなかったんだけどさ、この本読んでたら、日本のアイデンティティーってやつに関する元防衛官僚のコメントが出てきていた。
私が政府にいて推進していたのは何だと言ったら、アメリカにとってより良い同盟国であるというアイデンティティーでした。だから特に冷戦が終わってから、日本のアイデンティティーは何だと問われて、アメリカの同盟国であるという以外になかなか出てこない。結局、アメリカがやろうとすることをいかにお手伝いできるか、たくさん手伝えるほうがいい同盟国であるというものでしかありませんでした。これだけかと虚しくなったのだが、疑問は解けた。
あー、あとね、政治スタンス右派自任してるような人でもこれは読めると思うんだよね。いや、むしろ読まなきゃ駄目だと思うよ。それが天皇戴く国体ってのを根幹にしてる右派でネトウヨじゃないんだったら。だってさ、上記引用箇所でもわかると思うんだけど、これは天皇の「お言葉」に応えて書かれた本で、このままじゃあんたらが守ってると思ってる天皇制滅ぶけどいいのか? って言ってる本でもあるわけよ。著者は最後のほうでこう書いてるんだわ。「お言葉」の意味についてね。
この事態が逆説的に見えるのは、起きた出来事は「天皇による天皇制批判」であるから。「象徴」による国民統合作用が繰り返し言及されたことによって、われわれは自問せざるを得なくなったのである。すなわち、アメリカを事実上の天皇と仰ぐ国体において、日本人は霊的一体性を本当に保つことができるのか、という問いをである。もり仮に、日本人の答えが「それでいいのだ」というものであるのなら、それは天皇の祈りは無用であるとの宣告にほかならない。われわれがそう答えるならば、天皇(および想定される地位継承者たち)はその地位と職務を全うする義務を自らに課し続けるであろうか。それは甚だ疑問である。冷笑して「反日左翼」馬鹿にしてる場合じゃないんだって著者は言ってるんだよ。この「お言葉」が歴史の転換を画するものになるかどうかを決めるのは民衆の力だけだってさ。「民主主義とは、その力の発動に与えられた名前である」ってさ。ここまでアジられてなんの反応もできないなら、そんな右派は右派じゃなくてただの「奴隷」だろ。
俺が買った本は七万部って書いてあったけど、アマゾンの書影は八万部になっていた。さっさと版を重ねて十万超えを達成してもらいたい。そうすれば、こういう本がもっと出るわけで。世の中を変えるのには色々な経路があるのかもしれないが、正しい怒りってのは割と本線に近い道だと思う。読んでつくづくと、売れるには売れるだけの理由があるんだなと思った。面白いよこれ。
国体論 菊と星条旗 (集英社新書)
2019年4月15日月曜日
スージー鈴木 『チェッカーズの音楽とその時代』
今、あえて言おう。チェッカーズは、日本最後のロックンロール・バンドだった。「涙のリクエスト」「ジュリアに傷心」「NANA」「I Love you,SAYONARA」「Cherie」「Blue Moon Stone」…時を超えて感じる新たな魅力。愛しのシングル全30曲徹底解説。大土井裕二、鶴久政治のロングインタビューも掲載!昨日やっと入手して一気読みした。チェッカーズ好きなんで感想エントリなんてあげると膨大になりそうだと思いつつ、細かい話は別エントリにすりゃいいのかと気がついて、はや読書メモなどもつくりだしている(まだ本文には入っていない)。
そうすると、一曲一曲の話は別個で書くだろうから、全体の感想として何を書いたものかという話になるんだけど、まあいつもどおり思いつくままに。
まず客観的に考えて結構凄いと思うのは1992年(前世紀!)に解散したバンドの評伝ならともかく、全シングル分析なんて本が2019年に出るという事実が凄い。帯も音楽性を前面に出して、
今、あえて言おう。チェッカーズは日本最後のロックンロール・バンドだった。である。
で、全シングルと聞いたときに、それはカップリング(あるいはB面曲)こみだと思っていたら、タイトル曲だけだったのも凄い。30曲だけの解説で1冊作ってしまったのである。全曲ならたとえば「隠れた名曲編」だとか 「シチュエーション別はまる曲編」だとかいくらでもコーナー作れるのに、リリース順にシングル曲を語っていくという「けれん味のないアプローチ」の愚直さが凄い。
さらに、大土井裕二と鶴久政治のロングインタビューを載せているのが凄い。全員じゃなく、バンドの顔だった藤井フミヤでもリーダーの武内亨でもなく、ユージとマサハル。この人選にはとてもパーソナルなものを感じた。ここも凄い(が、内容については触れない。なんでかってこの本の大きな売りはここだから。本書なければ読みようのないデータが収まっているわけ、ここに)。
で、おれがチェッカーズのファン(元ファンじゃないよ。今も聴いてるんだ)だからこう思うんだろうけど、今になってこんな本が出ちゃうチェッカーズほんと凄い。その凄さたるや、本書のアプローチが包括しきれていないくらい凄い。
と、考えるのは、こんな本を書いちゃう著者をして激賞してる曲はほとんどないのである。しかもこれ、自分の感覚だとあまり違和感がない。当然そこからは、「じゃあ、なんでこんなに聴いてるの?」という疑問が生じる。自分ひとりの話であれば、「不思議だなあ」なんだけど、プロの音楽ライターをしてなお、同じような不思議を孕む文章をものしてしまう以上、通常のアプローチではチェッカーズの魅力の核には届かないのだという可能性が見えてくる。そこで知識ないまま、手持ちの情報で割と真剣に考えてみた結果、NANA以降のオリジナル楽曲に関しては、90年代以降の「キャッチーなサビ」というか一目惚れ発生を狙ったアプローチではなく、「飽きられないことを目指した楽曲作り」がなされていたのではないかという仮説を得た(初期の楽曲は一目惚れ狙ってそれに成功した傑作たちなので、あくまで中期以降の話)。
「飽きられない」ったって、そもそも一発目で気に入られなければ聴いてもらえないじゃないかと反射的に思うのは当然なんだけども、最初の五曲で固定客がついていたことに加えて、彼らの活動期の中盤までは毎日音楽番組が流れていたのだから、出せば電波に乗ったのである。となればキャッチーである、以外の戦略にも目はあったはずだ。以前フミヤがインタビューで新しくも古くもないスタンダードになることを目指したみたいなことを言っていた記憶があるのだけど、あれもキャッチーであること以上に飽きられないことを狙ったという意味で解釈できそう。
(追記:こんなこと言っちゃったけど、よくよく考えてみたら、中期以降の曲ってイントロがキャッチーな曲は多かった。「飽きられないことを目指した曲作り」ってのは「一目惚れ狙い」とのバランスの重心の問題と修正したい。比較的バランスが前者に傾いていると読んでほしい)
実際、本書を読んでいると、「このシングルの記憶は薄い」と言われるのは『運命SADAME』『Love '91』(『ふれてごらん』に当時の記載がないからおそらくはこれも)。歌番組がバタバタ倒れていった時期もそのあたりだったはずだ。個人的な話をすると、この『Love '91』 は初めて買ったチェッカーズのシングルで、たまに「なぜに最初気に入った曲が『Room』(1989)だったのに、シングル買うまでにこんなに間が空いたのか」と考えて答えが出ていなかったのだけど、今回この本読んで謎が一つ解けた気がした。露出が減ったので、飢えが出たのだ、たぶん。
テレビの申し子としてのチェッカーズという切り口があれば、もっと「チェッカーズの音楽とその時代」の正体に迫れたんじゃないかと思った次第。ただ著者がそこを見落としていたとは全然思わない。まず、チェッカーズの魅力として語られているのはライブが楽しいという話であって、どんなアーティストであっても、ファンは理解したければアルバムを聴けと言う。チェッカーズの音楽(性)の分析だけが主眼なら本書の切り口もそちらによったはずだ。シングルだけという選択には「テレビでかかった曲に限定する」ということを意味している(そう考えないと両A面扱いの『ブルー・パシフィック』が落ちてる理由がわからない)。ついでにギザギザの解説部分でどういう仕掛けがなされたかって話に触れているし、『One Nihgt Gigolo』では、イントロのアレンジがよく出来ているとしたあと、
それでも、このイントロ、よく出来た音楽性だけでは、ここまでの印象を残さなかったと思う。別の要素が大きく作用しているのだ。それは――フジテレビ系の当時の人気番組=「とんねるずのみなさんのおかげです。」におけるコントで、大々的に取りあげられたこと。と書いて、楽曲分析なんてどこへやらでコントの解説をしている。しかもこの曲でこの話を入れるのは、百パーセント正しい(から、フミヤも2018年のカウントダウンライブでネタの再演を行った)。みなさんのおかげですを捨象した 『One Nihgt Gigolo』理解は十全な理解ではない(できれば捨象したいと思うことも多いんだけどね、そのほうが格好いいから)。同じように、テレビ露出量を捨象したチェッカーズ理解もたぶん十全なものにならないというふうに著者が理解しているのは、この辺からも窺えそうなわけだけど、そこまで語っていないのは、たぶん分量の問題(ベストテン登場分だけでこんな商品出せるくらいのデータを吟味しなきゃいけなくなる)と、語り方間違えると露出量の多さで過大評価されたと受け取られる問題をクリアしにくかったためではないかと思われた。実際難しいよね……。
とはいえ、ファンとしては続編の『チェッカーズの音楽と音楽番組の時代』みたいな書藉を夢想せずにはいられない。後発組だったので、知らない話もたくさんありそうだから、評伝+アルバム全曲紹介みたいな本も読みたい。せっかくだから「あれから30年」みたいな6人全員へのインタビューも読みたい。
途中ごちゃごちゃ言ったので最後に大事なことをもう一度繰り返します。2019年にこんな本出るの凄い。書いた人も出そうと思った人も、出させる気にさせたチェッカーズも凄い。またこういうの出して。読むから。
チェッカーズの音楽とその時代
ついでに最新のベスト盤もご紹介。音がいいんですって。
チェッカーズ・オールシングルズ・スペシャルコレクション(UHQCD)
オリジナルアルバム(サントラ、別名義除く)はこれでまとめて手に入る。
THE CHECKERS 35th Anniversary チェッカーズ・オリジナルアルバム・スペシャルCDBOX(完全限定生産)
2019年4月4日木曜日
柴田宵曲 『新編俳諧博物誌』
『古句を観る』(感想)同様、俳句作品を引っ張ってきてコメントをつける本。本書の個性は動植物ごとに章立てしているところ。取りあげられているのは「鳶」「龍」「鯛」「河童」「狸」「雀」「熊」「狼」「兎」「鶴」「猫」「鼠」「金魚」「虫」「菊」「蒲公英」「コスモス」。ええと、空想上の生き物が混じっていたり、「虫」ってなんだ「虫」ってって思ったりするかもしれないが、まあ気にするな。
本書を書くきっかけになった本はジュール・ルナールの『博物誌』(amazon)という作品なんだとか。
で、本文はどの章も淡々と読める『古句』のときのように、これもメモっとこ、あれもメモっとこってな気分にはならなかったけれども、読み心地は悪くなかった。ただ、「新編」と銘打たれている理由らしい追加部分(具体的には「猫」以降)は、編者の小出昌洋がくっつけただけで、もともとの『俳諧博物誌』には収録されていなかったようだ。せっかくだからぶっこんでしまえという気持ちはわかるのだけど、そのせいでいささかシメが悪くなった気がしなくもない。ラストの「コスモス」は字面の統一からいけば「秋桜」のほうがしっくりくる気がしたと思うのだけど、これがカタカナなのには理由があって、
コスモスを秋桜と称するのは何時頃誰がいい出したものか、一般には勿論行われていない。俳人は文字を斡旋(あつせん)する都合上、いろいろな異名を好む者であるが、『新修歳時記』時代にこの称呼がなかったことは、前に引用した文章によって明かである。俳句の季題には冬桜(寒桜)というものがあって、花の咲く季節を現しているから、何か混雑した感じを与えやすい上に、コスモスの花にはどう考えても桜らしいところはない。シュウメイギク(貴船菊)を秋牡丹と称するよりも、遙か空疎な異名であるのみならず秋桜などという言葉は古めかしい感じで、明治の末近く登場した新しい花らしくない。少くともコスモスという言葉に伴う一種の新しい趣味は、秋桜という言葉には含まれていないように思う。ただ上五字に置く場合、コスモスでは据(すわ)りが悪いからというので、五音の異名を択(えら)むというだけのことならば、今少し工夫を費やしてしかるべきである。如何に日本が桜花国であるにせよ、似ても似つかぬ感じの花にまで桜の名を負わせるのは、あまり面白い趣味ではない。四音の名詞はコスモスに限った話ではないのだから、つまらぬ異名を作るよりは、このままで十七音にする方が、むしろ俳人の手腕であろう。秋桜の名が広く行われないのは、畢竟(ひっきょう)コスモスの感じを現し得ておらぬ点に帰するのかも知れない。という具合に、秋桜でコスモスを現すことに著者が納得していないから。ここだけ抜くとうるさ型なところがもの凄い強調されるわけだけど、全編読めばこんなにぐちゃぐちゃ言っているところはほとんどない。それなのに「コスモス」の章はここで終わってしまい、ってことは本文のラストがこれなので、口やかましい印象を残して読了することになる。しかもそれが筆者の意向じゃなくて編者の配列の結果なんだからいかにも残念な気がする。いや、目次に並べたときに、どこに置いても「コスモス」が悪目立ちする一方で、上記引用のこだわりは確かに読みどころっちゃあ読みどころだからなんとしても入れたいって苦悩した結果、最後にまわしたんだろうと推察はするんだけど、巻末はもっと淡々と本を閉じられるようにしてほしかったというのが正直なところ。
新編俳諧博物誌 (岩波文庫)
追記:本書所収の「鼠」と「狸」も収めたキンドル本をKDPしました!
随筆5本「鼠」「狸」以外は『随筆集 団扇の画』(感想)から採っています。ちょっと柴田宵曲を読んでみたいと思ったときの選択肢にしていただけると幸いです。(がっつり読んだほうが楽しいから、本音を言うとこのエントリの『俳諧博物誌』なんかを読んでもらいたいんだけどね。
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