2019年4月30日火曜日

霜月蒼 『アガサ・クリスティー完全攻略〔決定版〕 』


 ウェブの連載だったときにちらちら見ては面白いなあと思っていた記事がまとまって、2000円オーバーの単行本になったとき、内容はある程度面白いのわかっていただけに、腹が立った本。当時思ったのはなぜに800円くらいで早川から出さないのかだったのだが、みんな同じ事を考えたのか、文庫はクリスティー文庫に入った。でもって現在、クリスティー文庫のキンドル版は全品半額セール中(五月二日まで)。クリスティーは読むと面白いのだけど、いかんせん量が半端ないもんだからと日頃はあまり手を出していないのだけど、半額だってんだったらいい機会だ、何冊か買って読もう。まずはブックガイドのこれを買おうとダウンロードし、ざざざっと通読した。
 本レビューを読みに来る人もおれと同じことが知りたいのだろうと勝手に決めつけて、目次の★評価がマックスの5つになっている奴をまずは並べておく。

ポワロ長編
・死との約束(amazon
・白昼の悪魔(amazon
・五匹の子豚(amazon
・葬儀を終えて(amazon
・カーテン(amazon

ミス・マープル長編
・ポケットにライ麦を(amazon
・鏡は横にひび割れて(amazon
・カリブ海の秘密(amazon

トミー&タペンス長編
・NかMか(amazon

短編集
・謎のクィン氏(amazon
・死の猟犬(amazon

戯曲
・検察側の証人(amazon

ノンシリーズ長編
・春にして君を離れ(amazon
・終りなき夜に生まれつく(amazon

 上記作品はすべて『アクロイド』(4.5)『オリエント急行』(4)『ABC』(4.5)『そして誰もいなくなった』(4.5)よりも評価が高いわけだから読んで損はないだろう、ピンと来るタイトルのリンクから商品ページへ飛ぼう。

 さて、飛んだ人に対しては本エントリーの役目は終わったわけだけど、飛ばなかった人には本書の★は信用できるのかって問題が出てくる。最終的に著者の感覚との相性がどうかにかかってくるのは当然として、少なくとも本文の紹介文を読んでもいいんじゃないか程度には信用できると思う。理由は二つある。ひとつめとしては、これが単独著者による全作レビューであるということ。複数著者がごちゃごちゃやっていると、それぞれの著者が担当した作品しか読んでない可能性も考えなければいけないが、本書はそうではないため、少なくとも一定の基準における相対的な出来不出来ははっきり見えるので、趣味以前の評価になっているものは安心して省くことができる。ふたつめには、全作絶賛みたいな提灯持ち本と本書は一線を画している。「読まなくていい」という評価も複数に下されているし、政治関係の語りをめぐってはクリスティーの「リベラリズムへの理解が浅い」という批判もあった。そして、ほんと驚いたことに、ある作品については、ヘイトスピーチだと断じ、クリスティーが「差別主義」を「ヒロイズムとして描いた」とまで書いているのだ。ミステリー界隈で「ヘイトスピーチ」って単語が出てくると、数年前にこの単語を「悪口」の意味で使ってた評論家のツイートとか思い出して、意味わかって使ってるのか心配になるわけだけど、その作品のレビューを見る限り、まんまヘイトで「やっちまったな、クリスティー」って感じだった。世の中にはヤフー知恵袋を無断引用したような本でも褒めてしまう提灯持ちがいたりするわけだけど、そういう輩と著者は一線を画している(っていうか、早川書房もよくこれをこのままクリスティー文庫に入れるって判断したね……大した話じゃないと思ったのかな)。ゆえに、褒めている作品も褒めるに値するから褒めているのだと信用できると考える。

 で、ここが本書の長所だと思うんだけど、褒めてるレビューを読むとさ、これがもう畳みかけるように「読め! 読め!」って煽ってくんの。直接そう言うわけじゃないし、もちろんネタバレは回避しながらなんだけど、読まずにいられようかって気分にさせられた本がずいぶんあった。頭のなかでは能のキャラクター太郎冠者、次郎冠者が「そーれ、煽れ煽れ」「煽るぞ煽るぞ」って言い交わしてる絵が浮かんだくらい。やりすぎて失敗してると感じた作品もあったけど、概ね評価高いやつのコメントはこっちの読んでみようかなな気持ちに火をつける秀逸なレビューになっている。でもって、それを積んでいくうちにクリスティー=トリックメーカーとかポアロ=高慢で嫌な奴とかという定説を覆しにかかって、新しいイメージを提示してもいる。ブックガイドメインの本ではあるけど、それだけじゃなくてクリスティー作品の評論としても機能していると感じた。もちろん第一の存在理由はブックガイドでこれからクリスティーに触れる人への本なのは間違いないが、クリスティーを読破してるような人に、新しいクリスティーの語り方を提案してもいるという射程の長い作品だった。読み終わったときに満足感を覚える人も結構多いのではないか(もちろんそれ以上に全作品の著者ベストテンに文句を言う人は多いだろうけど、それでも)。



と、ここまでのべた褒めは決して嘘でもなんでもないのだが、ないのだが、それと同じくらいがっかりした点もある。すげえ気軽に「ババア」って単語を使っていることだ(検索してみると七箇所あった)。2010年代も後半になって、評論の地の文で「ババア」なんて単語と遭遇しようとは思わなかった。しかもこれ、ちょっと笑いを狙ってる書き方にも見えて、感覚が20世紀で止まってる人なのかなと思った。どころか、この単語がほかの部分の言葉にも反響しちまったもんだから、クリスティーのヒロイン造形褒めてる文章見ても、素直に読めなくなってしまった。たとえば、「男に依存しない女」みたいな言い方したときにも、「独立心のある女性」という著者が狙ったであろう意味の後ろで「面倒くさくない女」って言いたそうな気配を感じてしまったりするわけ。なにせ論じているクリスティーの武器はダブルミーニングだし。なんでこの単語出たあとの箇所すべてで女性キャラの造形を云々されるたびにちょっとしらけた気分になった。なんでこんな単語使ったかね、もったいない。あー、読んでる人が巷によくいる表現の自由戦士的価値観を持つ方だった場合に「言葉狩りいぃ~」みたいな条件反射起こされるとなんだから、いちおう補足しとくよ。フィクションの会話文だったら目くじら立てようとは思わない。問題なのは評論分の地の文に気軽(このくだりの想定読者が言いそうなフレーズを使えば取り立てて「悪意なしに」)に出現したという点だ。悪意がないから問題なんだって。こんなフレーズで笑ってやれるほど安い感覚は持ち合わせてないんですよ。

もちろん、この程度のだらしなさを露呈する評論文なんて、ほかにもあるだろうけど、そういう作品はどうせほとんどが読み継がれずに消えてゆく。だが本作は残ってしまう見込みが高いのだ。それが問題の本質である。扱っているのが、すぐれたミステリ作家アガサ・クリスティーである、という一点ゆえに、この評論とババアって単語を笑いのネタにする文脈は、今後も読まれ続けてしまうことになる。クリスティー文庫に収まるクリスティー紹介本で、こんな単語を気軽に使うのは、読者を舐めているからか、読者に甘えているからか、いずれにせよ頭を使うのを怠ったと言うしかない。全体としてみれば野心的だし、よくできているし、何より熱さを感じる作品だっただけに、実に実に残念だ。


アガサ・クリスティー完全攻略〔決定版〕 (クリスティー文庫)

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