2022年7月24日日曜日

丸山眞男『超国家主義の論理と心理』より引用


我が国家主権は(略)形式的妥当性に甘んじようとしない。国家活動が国家を超えた道義的基準に服しないのは、主権者が「無」よりの決断者だからではなく、主権者自らのうちに絶対的価値が体現しているからである。それが「古今東西を通じて常に真、善、美の極致」とされているからである(略)従ってここでは、道議はこうした国体の精華が、中心的実体から渦紋状に世界に向って拡がって行くところにのみ成り立つのである。「大義を世界に布(し)く」といわれる場合、大義は日本国家の活動の前に定まっているのでもなければ、その後に定まるのでもない。大義と国家活動とはつねに同時存在なのである。大義を実現するために行動するわけだが、それと共に行動することが即ち正義とされるのである。「勝つた方がええ」というイデオロギーが「正義は勝つ」というイデオロギーと微妙に交錯しているところに日本の国家主義論理の特質が露呈している。それ自体「真善美の極致」たる日本帝国は、本質的に悪を為し能わざるが故に、いかなる暴虐なる振舞も、いかなる背信的行動も許容されるのである! p.21(太字は原文傍点) 

純粋な内面的な倫理は絶えず「無力」を宣告され、しかも無力なるが故に無価値とされる。(略)倫理がその内容的価値に於てでなくむしろその実力性に於て、言い換えればそれが権力的背景を持つかどうかによって評価される傾向があるのは畢竟(ひっきょう)、倫理の究極の座が国家的なるものにあるからにほかならない。p.22

我が国の不幸は寡頭勢力によって国政が左右されていただけでなく、寡頭勢力がまさにその事の意識なり自覚なりを持たなかったということに倍加されるのである。 p.31

自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者(従って究極的価値(天皇:引用者註)に近いもの)の存在によって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲して行く事によって全体のバランスが維持されている体系である。これこそ近代日本が封建社会から受け継いだ最も大きな「遺産」の一つということが出来よう。 p.32

2022年7月21日木曜日

白井聡『主権者のいない国』より引用


 「文明としての新自由主義」の核心には、人間の内的なもの、すなわち価値感・感性・魂といったものの資本の論理との一体化、後者による前者の包摂という現象がある。 p.87

生産性という神を崇拝する奴隷がここにいる。 p.90

新自由主義は、狭義には政策決定のイデオロギーであるが、その現実の影響力は、狭い意味での政治の次元をはるかに超えている。それは、人間の精神に浸透することによって一定の形而上学的な世界観を提供しているという意味で、ひとつの文化あるいは宗教に近づいている。 p.94

根源的な、深淵のごとき無関心 p.95

「日本社会は同調圧力が強い」とは、非常にしばしば指摘されてきた事柄であるが、一体われわれは何に同調させられているのか。その核心にあるのは、「敵対性の否認」にほかなるまい。 p.145

要するに、この国には「社会」がない。社会においては本来、その構成員のあいだで潜在的・顕在的に利害や価値感の敵対関係が存在することが前提されなければならない。しかし、日本人の標準的な社会観にはこの前提が存在しない。そうでなければ、「社会」という言葉と「会社」という言葉が事実上同義で使われるという著しい混乱が生じる(「社会人」とは実質的に「会社人」を意味する)はずがないのである。あるいは「権利」も同様である。敵対する可能性を持った対等な者同士がお互いに納得できる利害の公正な妥協点を見つけるためにこの概念があるのだとすれば、敵対性の存在しない社会にはそもそもこの概念は必要ない。ゆえに、社会内在的な敵対性を否認する日本社会では、「正当な権利」という概念が根本的に理解されておらず、その結果、侵害された権利の回復を唱える人や団体が、不当な特権を主張する輩だと認知される。ここではすべての権利は「利権」にすぎない。会社はあるが社会はなく、利権はあるが権利はない。まさにこうした「敵対性の否認」に基づく思考様式にどっぷりつかった層が今日の反知性主義の担い手となっているのは、実に見やすい道理である。pp.145-146