2019年3月9日土曜日

柴田宵曲 『古句を観る』



 幸田露伴から安東次男まで、注釈鑑賞の本もかなり読んだが、知識は得ても、『古句を観る』のように、酔ったことはなかった。
酔った。といっても、いい気持ちになった、というだけではない。読んでいるうちに、著者の文章に同化して、読みおわったときには、成長したような気持、というと嫌味だけれども、自分が変わった感じがした。
宵曲氏の元禄俳句のえらびかた、鑑賞をたすけるための近代俳句、近代短歌、近代詩のえらびかた、そしてなによりも、文体が気に入ったのである。研究、考証、鑑賞でありながら、それ自体が芸術になっている。(原文は旧字新仮名)
うえに掲げたのは『柴田宵曲文集4』の帯に書かれていた都筑道夫による推薦文。さすが本の紹介はお手の物というか、ツボをしっかり押さえた褒めっぷりで、だいたいこんな本であるし、そもそも青空文庫に収録されているので、さっさと本文読み始めてもらえば合う人はそのままつらつら読み続けるんじゃないかという気もするが目茶苦茶ざっとまとめれば、元禄時代のマイナーな句を取りあげて鑑賞してみようじゃないかという本で、俳諧を中心とした雑誌『谺(こだま)』の創刊号から連載したものを一冊にまとめたのだそうな。
十年くらいまえに『新編 明治人物夜話』(amazon)という本を読んだらこれが滅法面白くて、著者の森銑三の本を何冊か眺めたことがあった。柴田宵曲はそのときに知って、『明治の話題』(amazon)とか『奇談異聞辞典』(amazon)とかをつまみ食いしたことはあったけど、一冊通読したのは『漱石覚え書』(amazon)以来2冊目。特徴はとにかく落ち着いた筆致。『漱石覚え書き』にしてもそうだったと記憶するけれど、素材が主役で著者は脇役というスタイルなので、コメントもそこまで長いものはあまりない。それでいて、色々なことを連想することができる。別に著者のほうが考えを誘導して考えさせようってことじゃなく、勝手に連想が浮かぶのである。これも静かな文体のなせる業だろう。
たとえば、
各方面における看過されたる者、忘れられたる者の中から、真に価値あるものを発見することは、多くの人々によって常に企てられなければならぬ仕事の一であろうと思われる。
(p.3)
という一文からは柳瀬尚紀のことを思い出した(それをまとめたエントリ:○○の一 - U´Å`U)し、
「あひさし」は二人でさすの意、相合傘(あいあいがさ)のことであろう。こういう言葉があるかどうか、『大言海』などにも挙げてはないが、相住(あいずみ)、相客(あいきゃく)等の用例から考えて、当然そう解釈出来る。(p.77)
という文を見て「相住」ってのはルームシェアのことだろうかなどと考え(それをまとめたエントリ:相住、同棲、ルームシェア - U´Å`U)、

蚊屋釣ていれゝば吼(ほ)える小猫かな    宇白(p.152)
という句へのコメントから猫は蚊帳に興奮するのか? という考えたこともなかった疑問が生まれ(それをまとめたエントリ:猫と蚊帳 - U´Å`U) 、

涼風や障子にのこる指の穴    鶴声(p.156)
のコメントを見て、ヘミングウェイを連想し(それをまとめたエントリ:障子に開いた指の穴と未使用の靴 - U´Å`U )

灌仏(かんぶつ)の日に生れけり唯の人    巴常(p.183)
という句の解釈への疑問から数え年が意外と最近まで使われていたことを知った(それをまとめたエントリ:灌仏、誕生日、数え年 - U´Å`U )

 もちろん、面白かったのはうえに挙げたものだけではない。調べるのが面倒だったり、どうにも膨らませようがなくてエントリ化を断念した思いつきやら疑問やらはいくつも浮かんだ。今思い出せるだけでも、軽く言及されていた子規の歌「真砂(まさご)なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり」(文脈なしで読むとすっげえスピリチュアルの匂いがするんだけど、子規とスピリチュアリズムみたいなものはつながるのか、みたいな疑問があるので解釈が知りたい)とか『今昔物語集』に出てくるっていう「蜂と蜘蛛と戦う話」(本文読みたい)、さらっと書かれた「伊勢浜が脱走した後、坊主頭で土俵に登ったのが異彩を放っていたことは、われわれの記憶にもあるが」(何その話)なんかは時間あるときにチェックしたい。
 でもって、今まで俳句に興味なかったのに、これを読み終えたら一茶と蕪村は眺めたい気分になっていた(比較とか喩えにはやっぱり芭蕉ともどもよく出てきた)し、もうちょっと宵曲の文章が読みたいと本棚を漁って肥やし化していた『書物』(amazon)を読み出しているうえに、さっきの子規の歌を扱ってくれているんじゃなかろうかと図書館にあった『柴田宵曲文集4 「竹の里歌」おぼえ書/根岸の俳句』まで借りてきた。というくらい、読んでいるあいだ、読み終えたあとの感触がいい本なので、自分的には大当たりの一冊だった。

 でね、こっからは完全に妄想なんだけど、この本って昭和の十八年に出てるんだよ。で、話題が話題だから戦争の雰囲気だの国威発揚的な文言だのは全然ないわけなんだけど、それがもしかすると当然なんじゃなくて著者の強烈な意志の元に文がコントロールされた結果だったんじゃないかなあってのは、読みながらなんとなくずっと考えていたことだった。執筆しない程度で抵抗扱いされる文学者もいるわけじゃない。そっからすると、こんな本を出版するとこまでこぎつけた宵曲、結構気骨があったんじゃないかなあ。ちなみに上にあげた『書物』って本も同じ年に出てるんだよね。のどかに句だの本だのの話をしてるように見えて、世の中相手に絶望的な戦いを戦っていたのかもしれない。巻末エッセイ書いてる森銑三の話によれば、この本、当時は売れなかったらしい。そりゃそうだろう。ついでにそうなることは著者にもわかっていたんじゃないかって気もする。なんで面白かったなあってだけじゃなくて、なんとなく立派な本だなあって印象も残った。良書なのは間違いない。


古句を観る (岩波文庫)

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