2019年3月22日金曜日

安田浩一 倉橋耕平 『歪む社会』


『歴史修正主義とサブカルチャー』(感想)が結構面白かった倉橋耕平と『ネットと愛国』(amazon)の著者の安田浩一の対談本。倉橋耕平執筆の「はじめに」にはこうある。

本書は、ジャーナリストの安田浩一さんと倉橋が、現代日本の「右派現象」をめぐって、お互いの視角から検証することを目的として、時間を共有した記録である。二〇一八年に私は『歴史修正主義とサブカルチャー』(青弓社)を、安田さんは『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書)を上梓した。幸せなことに両著作とも多くの人の手にとってもらえた。
拙著では、一九九〇年代以降に右派論壇で展開される歴史修正主義が、(歴史学を扱う学術出版ではなく)商業出版、サブカルチャー、メディア文化を通して拡散したことを検討した。他方、安田さんの著作は、足を使って右翼の生き証人への取材を元に、右翼の歩みを検討したものだった。
そうした、本を書くための検討方法が異なる二人が、それぞれ研究者とジャーナリストという立場から現代社会における右派について対話したときに見えてくるものは何か、というのがこの本の趣旨である。
これがコンパクトな内容紹介になっていると思うので、この段階で興味を覚えた方は感想なんか読んでないで上のリンクからアマゾン飛んで自分で読んだ方がいい。このあとの駄文は内容まとめるとかよりも、印象に残った部分を抜き書きしたり、そっからの連想書いたりの文章なので、たぶん最後まで読んでもこれがどんな本なのかよくわからないと思う。とりあえず、もうちょっと書いてあることを把握したい人向けに目次も引いておく。

  • はじめに 倉橋耕平
  • 第一章 ネット右翼は思想か? それともファッションか?
    「余命三年時事日記」による弁護士懲戒請求とは何だったのか
    ネット右翼とオンライン排外主義
    隊服からスーツへ
    極右とネット右翼の違いとは
    在特会とセックスピストルズ
  • 第二章 時代によって変化する保守言説
    保守とは何か
    内輪話の保守言説を表舞台に出した小林よしのり
    時代によって変化する保守言説の「最先端」
    右翼の言葉が移ろっていく
    棚上げされていた歴史認識問題が焦点化する
    日本社会は右傾化しているのか
  • 第三章 歴史認識、ヘイトスピーチ、そして差別
    九〇年代の「慰安婦」問題
    IT系とネット右翼の関係性
    自分で選び、自分で発信したものは「正しい」のか
    歴史修正主義の本を書いた理由
    取材したくてネット右翼を取材したことはない
    ヘイトスピーチの被害者への気づきが遅れた理由
    沈黙を強いることの罪
    物言う弱者に対する排除や差別
  • 第四章 国会議員によるバックラッシュが始まる
    国会議員によるヘイト発言
    あぶり出されるマイノリティ
    「杉田さんは素晴らしい!」
    自民党はなぜヘイト発言を容認するのか
    二〇〇〇年代とバックラッシュ
    「慰安婦」問題はむずかしい
    右派の分析に重要な年としての一九九七年
    酒場左翼とは
  • 第五章 歴史修正主義とメディアの共存
    朝日新聞を叩くことの意味
    保守系総合誌の変容
    マルコポーロ事件の衝撃
    「つくる」会を甘く見ていた雑誌記者たち
    歴史修正主義のテンプレート
    自己責任と排除
    リンクするネット右翼と新自由主義
  • 第六章 リベラルはなぜ右派に対抗できてこなかったのか
    歴史修正主義の事例研究
    逆張りは気持ちいい!?
    本質がスポイルされていく
    教育が攻撃される時代
    日教組はいまも活動しているのか?
    「つくる会」を冷笑する態度は学者としてどうなのか
    九〇年代サブカルチャーとポストモダン
    ムック、オカルト、そして政治へ
    右派の粗製濫造に左派がついていけない
    不買運動はありなのか
  • 第七章 差別はネットとともに進化する
    保守、右翼、ネット右翼
    「雑なネトウヨ」とは
    ネットの変質について
    「新たな真実」とネットで出会う
    フィルターバブルとネット右翼
  • 第八章 企業のネット右翼化を考える
    歴史修正主義と排外主義のつながり
    ネット右翼的な企業について
    拡張する「ネトウヨビジネス」
    ネット右翼的な出版社について
    「良書を出しているからヘイト本を出してもいい」の論理
    情報が欠乏した部分に入り込む「気づき」と「発見」
  • 第九章 リベラルは右派にどう抗っていけばよいのか
    歴史修正主義と日本の政治
    右派のエポックとしての一九九七年
    自民党のメディア戦略とネット右翼
    リベラル派与党議員の「いまは官邸に抗えない」という声
    「そこまで言って委員会」を考える
    「本音トーク」と「ぶっちゃけ」の危うさ
    歴史を否定する人びとにどう抗っていくか
  • おわりに 安田浩一

あら? 長い。全体250ページ程度なんだけど、結構小見出しが多かったんだな。大丈夫。そんなに厚くないから。自由連想始めるまえにもう一回リンク貼っておくね。


で、こっからはまとまりなく思ったことなど。
まず、すっげえ頷いた箇所がこちら。
安田 僕の周囲の、仕事仲間や取材先とは関係のない在日コリアンの友人は、その多くが運動圏外の人です。デモにカウンターとして参加しているわけではありません。彼らは、ネット右翼の話をしても、沈黙している。その話を振られること自体を嫌がる。会話がつづかないから、僕もネット右翼の話を避けるようになる。当然のことだと思います。
当事者だからこそ、被害を語るべきだというのはマジョリティの傲慢です。ヘイトスピーチの最大の害悪は、被差別当事者に沈黙を強いることだと僕は思っています。黙らせる、あるいは表現や言葉を奪いとる。友人たちが沈黙しているのは、巻き込まれたくないからです。巻き込まれて嫌な思いをしたくない。傷つきたくない。絶望したくない。そして言葉を奪われたくない。自由な表現を失いたくない。そう思っているからです。
リベラル陣営の一部からも「ヘイトスピーチも表現のひとつ」だとして、ときに容認論のようなものが飛びだしますが、冗談じゃない。マイノリティの表現が奪われているのに、自由も何もあったもんじゃない。pp.76-77
自分は90年代に筒井康隆の件通じて「表現の自由、大事!」ってテーゼを刷り込まれた人間だったもんだから、ヘイトスピーチを保護されるべき表現でないとする論理を当初うまく飲み込めなかった(つまり、表現かそうでないかを恣意的に選別していいの? って疑問をうまいことクリアーにできなかった)のだけど、被害者の表現の自由を奪っているという点に気がついたら、これが保護されるべき表現でないということがすんなりと納得できた(なんの制約もない状態であれば、権力の強さと言ったりやったりしたりして咎められないレベルは比例する。そうである以上、「表現の自由」という概念は権力のないほうの表現を保証するためにあるわけで、権力のないほう=マイノリティに沈黙を強いるような言動は、存在自体が表現の自由に喧嘩を売っていると考えられる。表現の自由という概念を脅かす存在であるがゆえに、ヘイトスピーチは保護されるべき表現にはならないと考えた)経験があったので、安田のこの発言はまったくもってそのとおりだと頷けた。
こんなやり取りも印象に残った。

(安田)差別者は「格下」と勝手に見なした他者に対しては、権利を付与し、獲得させなくてはいけないと思っていた。ところが、「格下」だと勝手に判断した人が、言葉や権利を手にし、主張しだしたとたんに、「いや、お前そこまでは与えていないだろう」というかたちでバックラッシュが起きていくというのが、一連の流れじゃないかなという気がしてます。身勝手であり、傲慢な屁理屈です。
倉橋 そうした傾向は、世界的なものだと思います。特に女性に対するバックラッシュが。  pp.86-87
まんま田山花袋の『蒲団』(感想)であると思ったのだった。今リンク貼るためにエントリー呼び出したからざざっと流し読みしてみたら、当時(14年前)のおれは「現代から見るとほぼ理解不能」と書いていた。「自分には」と書いておけばよかった。「現代」はそんなに「現代」じゃないと気づいたのはもっと最近のことである。
あと、174ページで安田が「保守を掲げながら街頭でデモをすることなど、考えられません」と言っているのは、ちょっと盲点を突かれた思いがした。なぜかというと、

なぜか。保守は、かまえて待たなければならないからです。歴史や時間に身を任せるのに、変革を求めて主体的に活動することなど、本来ならありえません。  
とのこと。マイペディアの解説には、

現状の大幅な変革を望まない主義。英語でconservatismなど。なんらかのイデオロギーや原理に基づくよりも,日常的利益や生活を維持しようという精神や態度に根ざす。英国の政治思想家バークのいうように〈保守するために改良する〉のを拒まないのが常であり,現状を固定的に維持してそれを伝統や民族の名によってイデオロギー化するときは反動主義に近くなる。
とあるので、安田の理解もそんなに外れていないと思われる。まあ現代の自称保守は保守か革新かとか右か左かとかじゃない気がしていて、倉橋が245ページで「彼らの考えをむずかしい理論で分析したり、新しい知見や現象として学術的概念を与えてしまうことは、彼らを格上げしてしまうことにほかならない」って言ってるのが当たっているように思うんだけどね。新しい概念どころか既成の思想・政治の用語を当てはめる必要もないんじゃないなかろうか。(そうなると指示する言葉がなくなって困るから本書でも右と左、保守とリベラルみたいな構図を用いて喋ってるんだけど、やっぱり違和感があるんだよね。変にフラットな相対位置を与えていることが)これは右・保守って言葉に対してだけじゃなくてリベラルとか左派とかって言葉にも感じることでさ、差別で遊んでるアホが保守やら右よりやらを自称するなら、それを批判するのは左派・リベラルだろうみたいな前提ができちゃってるように見える(本書だけじゃなくてネットの人たちの発言見ててもそう)んだけど、「差別はいけない」って考える人たちってだけが構成資格だったら、そのカテゴライズの名称は左派でもリベラルでもなくて「最低限のまともさを持つ人」とかだろって思うんだよね。で、思想的カテゴリってのは、そんなラインを軽くクリアした上での考えの違いを区分するためにあるんじゃないのかなあと思うわけ。まあ、正確な用語を検討するよりも共有しやすい単語を選ぶっていう理屈もわかりはするんだけど。

あと、もう一点、資料として勧めたいのが205ページの「ネット右翼系の本を出している出版社リスト」。リスト掲載の基準は、「歴史修正主義的なものを刊行していたり『やばい●●』というような特定の人や国をおとしめたり差別するヘイト本を刊行しているところ、あと『ニッポン、すごい!』という論調の本を刊行している出版社」だそうで、そのリストの長さに暗鬱とした気持ちになりつつ、今後本買うときの出版社チェックに使おうと思った。ただ、これ曾野綾子を一生懸命出してるところとか抜けているんで、もうちょっと掲載者数を増やす必要がありそう。そうそうそれで思い出したけど、新潮45が休刊になるまえに、杉田水脈衆議院議員の発言に抗議する 出版社代表82社の共同声明ってのが出されていた。このリストに名を連ねているところはネトウヨ本については安全なんじゃないかと思われる。どうせならこっちのリストに名を連ねている出版社の本が買いたいが、大抵の場合読みたいと思うかどうかは作家名が決めるので、おれの好きな著作者のみなさまが仕事先を選んで下さることを祈るばかりである。いい加減長くなってきたからこれくらいにしておこうかな。


歪む社会 歴史修正主義の台頭と虚妄の愛国に抗う

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