2023年11月18日土曜日

Rodrigues Ottolengui "A Modern Wizard"

 

 昔、"After Sherlock Holmes: The Evolution of British and American Detective Stories, 1891-1914(アマゾン)"という本で知り、なんとなくダウンロードしていたのを思い出して読んでみた。著者はアメリカの有名歯科医でミステリーも書いた、みたいな紹介文だった。代表作は"final poof"という短編集で、これはエラリー・クイーンが歴史に残る優れた探偵小説短編集の殿堂「クイーンの定員」の一冊に選んでいる(邦訳はヒラヤマ文庫『決定的証拠(アマゾン)』)。

 で、毎日たらたら読んでいたのだけども、どうなっているのかというような筋の運びで、これはただの大駄作なのか、それとも奇書なのかという疑問がずうっと頭から離れなかった。ので、エントリー作るかと思った。

 冒頭は普通にミステリーっぽい始まり。時代は19世紀後半。ある女性が亡くなり、ジフテリアだとされたのだけど、別の医師が毒殺だと主張し、女と親密な関係だったメドジョラ(Medjora)という医師に嫌疑がかかる。メドジョラが姿を消しているため、いっそう怪しいと思われている。

 という話を新聞で読み、こんな事件を担当してえと言い合う弁護士のダドリーとブリスに来客が。やって来たのはメドジョラその人。無実を訴え弁護を依頼するが、もう数日は姿を隠していたいと言って去って行く。いかにも何か秘密がありそうな感じ。

 去って行ったメドジョラをダドリーとブリスの下で働いている見習いのジャック・バーンズが勝手に追跡する。彼は探偵志望で秘密を暴きたいと思ったのだ(読んでいたときは気づかなかったのだけど、これは『決定的証拠』その他で探偵を務めるキャラクターと同名なので、本作はシリーズ他作品の前日譚的な位置づけなのかもしれない)。で、メドジョラはどっかの廃屋に入っていって、バーンズが様子をうかがっていると、馬車がやって来て女が一人降り、やはりその廃屋に入っていく。バーンズも忍び込んで盗み聞きをしようとする。

 このあたりまで『二輪馬車の秘密』とか連想しつつ普通に昔のミステリーだなあと思いながら読んでいた。バーンズの盗み聞きでメドジョラとその女(大金持ち)が結婚の約束をしていることがわかる。女はメドジョラに二人で国外へ逃げようと言うがメドジョラは裁判を受けると断言。そこへ女を尾行していた警察が容疑者確保に乗り込んできて、メドジョラは家に火をつける。その過程でバーンズは盗み聞きしているのが見つかってしまい、メドジョラはバーンズを家の地下へ連れて行く。

 ここから最初の意味わかんねえ展開になる。家の地下は古代文明の神殿みたいな場所で、メドジョラは自分が現代よりも知識の進んでいた太古の文明の末裔なのだとか言い出す。でもって、この場所を人に知られるわけにはいかないからおまえには忘れてもらうとか言って、バーンズに催眠術をかける。かけられたバーンズはメドジョラの言うことに絶対服従みたいになって、言われるがままに記憶を飛ばし、自宅へ戻る。

 はて、ミステリーだったはずが、なんかおかしな方向へ飛び出していったぞ、こりゃいったいどうなるんじゃろと思っていると、どうなるもこうなるもというか実に意外なことにというか、裁判が始まる。家が燃え落ちてメドジョラは焼死したと思われていたが、ダドリーのところに予定通り出廷するという連絡が行き、そのとおりに現れる。

 でね、裁判場面が普通に続くの。古代文明も催眠術も一切でないで、証人の証言の粗から証拠としての信用性をひっくり返したり、意外な真実が提示されたりっていう。こんな時代に法廷劇が書かれていたんだねえとか前段忘れて感心するようなオーソドックスな場面が続き、メドジョラは無罪を勝ち取る。

 が、分量的にここまでで4割である。あと6割何するんだよと思ったら、今度は20年時代が飛ぶ。

 レオンって少年が、死の床にある母親から「おまえは私の子どもじゃない」とか言われてショックを受けるところから始まる。レオンには犬のロッシーしか友達がおらず、母だと思っていた相手から親子でないと突き放され、おまけにその女の親戚に権利を主張されて家を失うことが確定していて、詰みに詰んだ感じでいると、そこにメドジョラが現れる。メドジョラから何かやりたいことはないのかと言われたレオンはものが書きたいと言い、最近書いたエッセイをメドジョラに見せる。それは犬の死体の一人称で書かれた魂に関する考察で、メドジョラは感嘆する。で、メドジョラはレオンに自分のところで暮らしてはどうだろうと持ちかけ、最終的に犬のロッシーとふたりメドジョラのところへ転がり込む……みたいなところで大体前半終了。

 ミステリーだと思って読み始めていただけに、本来でしたらそこで話終わりなのでは……ってな無罪判決の時点で半分にも達してないのに驚き、「このあと何すんの?」と読み進めたら上記みたいな筋が展開し、「これ、どうなんの?」「これ、どうなんの?」と思っているうち、唖然とするような終わり方で物語が終わった。一応言っておくと、バーンズは後半になって再登場する(が、ほんとびっくりしたことに催眠術の話はまったく触れられない)。

 読み終えて「いったいなんだったわけ?」という疑問が残り、まだ解けないのだけども、場面場面が退屈ということもなく最後まで読めちゃうのがまた不思議というか、これほど「このあとどうなんの?」というか「このあとどうすんの?」しか考えずに小説読んだのっていつ以来だろう。

 いやあ、けったいなもんを読んだ。

2023年10月27日金曜日

国枝史郎 『大鵬のゆくえ』

 先日、『通夜の人々・見得ぬ顔(amazon)』というタイトルの本をKDPした。『国枝史郎探偵小説全集全一巻(amazon)』に収録されている探偵小説論であったり感想であったりのなかで言及された小酒井不木の短編をまとめ、国枝の言及部分と一緒に読めるようにしたものである。末國善己の選択の妙なのかもしれないが、国枝の小酒井不木愛があまりに微笑ましく、これは言及されている作品とパッケージしてやらねばなるまい、みたいな気分になって勢いで作った。で、そのときに小酒井に「国枝史郎氏の人物と作品(青空文庫)」というエッセイを知った。

 そこにこうある。

「大鵬のゆくえ」を読むに至って、すっかり魅せられてしまい、国枝崇拝者の一人となった。その後、氏の作品は、手の及ぶ限り眼をとおさずには置けないことになったのである。
 そんなに面白かったのならこれも読まねばなるまいということでamazonの無料本で読んでみた。リンクは青空文庫に貼っておく。

大鵬のゆくえ(青空文庫

 物語は平安時代に始まる。藤原信輔のもとへ本邦第一の物持ち長者と称される馬飼吉備彦が訪ねてきて、六歌仙の絵を描いてほしいと頼み、信輔引き受ける。出来上がった絵は吉備彦の子ども六人に分けられる。

「ここに六歌仙の絵巻がある。お前達六人にこれをくれる。大事にかけて持っているがいい。……俺は今無財産だ? 俺は家財を棄ててしまった。いやある所へ隠したのだ。俺からお前達へ譲るものといえばこの絵巻一巻だけだ。大事にかけて持っているがいい。……ところで俺は旅へ出るから家を出た日を命日と思って時々線香でもあげてくれ」
 これが吉備彦の遺訓であった。
 吉備彦は翌日家を出た。
 鈴鹿峠までやって来ると山賊どもに襲われた。山賊に斬られて呼吸いきを引き取る時こういったということである。
道標みちしるべ、畑の中。お日様は西だ。影がうつる? 影がうつる? 影がうつる?」
 まことに変な言葉ではある。
 山賊の頭は世に轟いた明神太郎という豪の者であったが、ひどくこの言葉を面白がって、時々真似をして喜んだそうだ。で、手下どももいつの間にかおかしらの口真似をするようになり、それがだんだん拡がって日本全国の盗賊達までその口真似をするようになった。
道標みちしるべ。畑の中。お日様は西だ。影がうつる? 影がうつる? 影がうつる?」
 この暗示的な謎のような言葉は爾来代々の盗賊によっていい伝えられ語り継がれて来て、源平時代、北条時代、足利時代、戦国時代、豊臣時代を経過してとうとう徳川も幕末に近い文政時代まで伝わって来た。
 そうして文政の某年に至って一つの事件を産むことになった

 といったところから本編らしきものが始まるのだけども、この出だしの部分がなんとも投げやりで楽しかった。こんなふうな描写がある。

「馬飼吉備彦と申しますれば本邦第一の物持ち長者と、かよう聞き及んでおりましたが……」
「その長者の吉備彦じゃわい」
「それに致してはその風態みなりがあまりに粗末にござります」
「ほほう、どのような風態かな?」
「木綿のゴツゴツの布子を着……」
「恐らくそれは結城紬ゆうきつむぎであろう」
 まさか藤原氏の全盛時代には結城紬などはなかった筈。
 それはとにかく吉備彦は館の奥へ通された。それお菓子、それお茶よ。それも掻い撫での茶菓ではない。鶴屋八幡の煎餅に藤村の羊羹というのだからプロの口などへははいりそうもない。
 ややあって信輔があらわれた。
「よう見えられたの吉備彦殿」
「これはこれはご前様。ご多忙中にもかかわらず、お目通りお許しくだされまして、有難い仕合わせに存じます」
 ――とにかくこういう意味のことを吉備彦はいったに相違ない。昔の会話はむずかしい。それを今に写そうとしても滅多に出来るものではない。武士は武士、公卿は公卿、ちゃアんと差別けじめがあった筈だ。それをいちいち使い分けて原稿紙の上へ現わそうとするには、一年や二年の研究では出来ぬ。よしまたそれが出来るにしても、そうそう永く研究していたでは飯の食い上げになろうというもの。

 そりゃそうだが、それを言うのかと笑った。こっから時代は文政に飛び、六歌仙の絵の一つを家宝として受け継いできた男、藪紋太郎が絵を盗まれたり貧乏神が現れたりしつつ、やがてタイトルになっている大鵬が現れる。

鷹狩りの一行は林の前を林に添って行き過ぎようとした。
 と、忽然西の空から、グーン、グーンという物の音が虚空を渡って聞こえて来た。
 家斉公は足を止めた。で、お供も立ち止まる。
「何んであろうな、あの音は?」
 こういいながら笠を傾け、日没余光燦然と輝く西の空を眺めやった。
「不思議の音にござります」
 こう合槌を打ったのは寵臣水野美濃守であった。さて不思議とは云ったものの何んの音とも解らない。しかしその音は次第次第にこの一行へ近づいて来た。やはり音は空から来る。
「おお、鳥じゃ! 大鳥じゃ!」
 家斉公は手を上げて空の一方を指差した。
 キラキラ輝く夕陽をまとい、そのまとった夕陽のためにかえって姿は眩まされてはいるが、確かに一羽の巨大な鳥が空の一点に漂っている。
 何んとその鳥の大きいことよ! それは荘子の物語にある垂天すいてん大鵬たいほうと云ったところで大して誇張ではなさそうである。大鷲に比べて二十倍はあろうか。とにかくかつて見たことのない奇怪な巨大な鳥であった。
 グーン、グーン、グーン、グーン、かつて一度も聞いたことのない形容を絶した気味の悪い声! そういう啼き声を立てながら悠然と舞っているのであった。
 これに藪紋太郎が吹き矢で傷手を負わせ、話は後半へ。医者の誘拐やら謎の人物の治療やら百鬼夜行やらありつつ、真相開示へ向かう。

 語られた真相は見方によってはガイ・リッチーの『シャーロック・ホームズ』みたいと無理くり褒められないこともないのだけれど、正直なところいささか竜頭蛇尾で拍子抜けした。六歌仙のプロットラインも上手に着地したとは言いがたい。読後感としては「なあんだ」で終わってしまったが、それでいて小酒井不木が「すっかり魅せられてしまい、国枝崇拝者の一人となった」理由もなんとなくわかった。語り口の軽妙さが癖になるのである。読んでいてぐいぐい引っ張られていくというのもちょっと違ってすいすい進んでいく感じ。小酒井が上のエッセイで述べる国枝の長所は文章のリズム・力と空想の豊富さであって構成でもオチの意外性でもなかった。最後どうなるんだろうという読み方でなく、場面場面を楽しもうと思うなら満足度は高くなるのも頷ける。

 ついでに小酒井のエッセイで最後に楽しみとされている『木曾風俗聞書薬草採』も読んで見ようかと思ったのだが、改題された『任侠二刀流(青空文庫)』もアマゾンの無料本には見当たらず、ちょっと残念だった。


2022年12月31日土曜日

2022年に読んで印象に残った本。

  20年、21年は作成をサボったのだけど、年末のまとめくらいは作っておこうかなっつーことで、2019年以来のまとめ。

 今年は7月から急に読書が捗るようになって、年の後半はもしかすると自分的には前代未聞なのではあるまいかっつーくらいの読了数になった。読書メーターによると今年読んだ本は246冊だったそうな。1冊めはウィルキー・コリンズ中島賢二訳『白衣の女(下)』(amazon)だった。

『月長石』(感想)を読んでからの十数年でコリンズは何作か読み、そろそろ代表作のこれも読みますかねという感じで21年の暮れから手を付けた。いつも言うことだけどやっぱりキャラクターの描き方が上手。ステレオタイプの誹りなんかまるで恐れていない強さっつーか。本作で言うと、フェアリー氏っていう小心我が儘なキャラクターなんかが典型で、ほかの視点人物によって語られる嫌さが本人の手記になっても全然ぶれなかった。あとはフォスコ伯爵ってキャラの不遜さと彼なりのフェアプレイ精神なんかが一年経っても印象に残っている。それ以外で今年読んだコリンズは『法と淑女』『毒婦の娘』『ノー・ネーム』で、いずれも印象深いキャラクターが登場して面白かった。今日『アーマデイル』の上巻を読み終わったので、今年はコリンズに始まってコリンズに終わった感じ。

『白衣の女』のあと、一生懸命読んだのはDan Wellsの “I AM NOT A SERIAL KILLER”(amazon)。2017年には『アイム・ノット・シリアルキラー』のタイトルで映画(amazon)にもなった作品。


サイコパスであることを自覚している主人公が自分の暮らす町で起きる連続殺人を止めようとする話。殺人衝動のある主人公っていうと『デクスター』とかに前例があるけれども、本書の特色は犯人が人間じゃなくてデーモンだったこと(笑)本作でデビューした著者はこれを3部作に膨らませ、映画化を機に続編をさらに3本書いた。どう考えても後付けだろって感じに厚みの出てくるデーモンの設定やら分量的に長すぎるとか主人公以外のキャラ死にすぎとかいろいろ思うところもあったけど、この人の書く女の子がなんか可愛くてついつい全部読んでしまった。邦訳がなくて残念に思っている。

 ダン・ウェルズの6部作を読み終わったあと、しばらく小説で当たりに思えたものとはぶつからなかったのだけど、その分ノンフィクションに感心するものがいくつかあった。アイニッサ・ラミレズ 安部恵子訳『発明は改造する、人類を。』(amazon)は技術の発明が人間の暮らしや感覚や価値感をどう変化させたかってな話を具体的なアイテムを例に提示していて面白かった。


 冒頭で語られた「二十世紀初頭には懐中時計を使って時間を売る人がいた」って話で一気に引き込まれ、そのままの勢いで読了した。タイトルも表紙のデザインも悪くないと思うし、中身も面白いんだけど、話題になっているのをほぼ見ないのがもったいなあと思う。

 同じ月に読んだ安田浩一 金井真紀『戦争とバスタオル』(amazon)は「あの戦争で「加害」と「被害」の交差点となった温泉や銭湯を各地に訪ねた二人旅」って紹介文通りに進む前半も興味深かったけれど、このタイトルなのに風呂が出てこなかった四章から巻末までの流れに胸が苦しくなった。のどかなイラスト表紙とちょっとズラしが入っているように見えるタイトルからは予想できない展開が待っていた。読み終えたときには、この本に書かれていることは教科書に載せて国民の共通知にしなきゃ駄目だろうと素で考えた。ほんとに広く読まれて欲しい本である。

 安田浩一は『ネットと愛国』(amazon)以来よく読む作家の一人で、『戦争とバスタオル』も安田浩一が共著者ならと手に取ったんだけど、もう一人の共著者金井真紀の『世界はフムフムで満ちている』(amazon)もこれまたすごい本だった。


 1項目2頁で総まくり的に様々な専門家の話をまとめているのだけども、相手の名前は出さないようにしている(たまに誰だかわかるものもあったけど)ため、ノンフィクションにも読めるし創作ショートショートにも見える書きっぷり。創作ショートショートに見えるというのは、その2頁に浮かび上がる物語があるってことね。これを捕まえるためにはどれだけの取材量が背後に隠れているのかと考え、登場する人の人数を数えると気が遠くなる。今年の新刊でベスト1を問うようなアンケートがあったら、自分はこの本に票を入れると思う(本自体は文庫落ちしたものだった気もするがそれでも)。うっかり品切れとかの悲劇が起きないように、はやいとこ電子化もしてほしい。

 三春充希の労作『武器としての世論調査』(amazon)が出て以来、「武器としての〇〇」というタイトルをよく目にするようになった。そうしたうちの一冊に「新自由主義は上からの階級闘争である」と喝破した白井聡『武器としての「資本論」』(amazon)があり、出た当時に面白く読んだ。その後、斎藤幸平『人新世の「資本論」』(amazon)が出て今に至るまでよく売れている(今もリンク貼るためにアマゾン覗いたらベストセラーマークついてた)。で、資本論ブーム来てるのかなあと思っていたら、日本共産党中央委員会社会科学研究所訳の新版資本論』が完結したって話が聞こえてきた(去年だったかな)。新訳なら読めるかもしれんよねと思って、第一分冊(amazon)から読んでいくことにした。


 こんな表紙。少なくとも岩波文庫版(amazon)みたいに睨まれることはないのでその分取っつきやすかった。あ、顔で思い出したけど、映画の『切り裂き魔ゴーレム』(amazon)にマルクスが出てきた(予告編にもちょっとだけ映ってる)のも、本書を意識するきっかけにはなったかもしれない。で、無謀な挑戦だろうと思っていたら、なんと今月全12分冊を読み終えてしまった。読み終えたっつーより全頁に目を通したって感じだけども。マルクスと言えば資本論、資本論と言えば革命みたいな印象があったんだけども、そんな話は全然なくて1800年代後半の経済学の教科書だった。第二分冊の法規制が検討されていたときの資本家たちの反論がまんま現代で、法規制された結果、彼らの言う通りになったかと言えば全然そんなことはなかったって話が印象に残っている。地代を扱う第三巻は正直読むのが苦痛だった。
 そして7月、選挙直前に元総理大臣が銃弾に斃れるなんて事件が起きてしまった。その月の最後に読んだのが永田浩三『NHKと政治権力』(感想)。

2013年から今に続く体制(これは白井聡の『主権者のいない国』(amazon)で覚えた言い方)の源流が21世紀開始早々の番組改編事件までは遡れるんだなあという印象を強く抱いた。元首相殺害と関係した話題では樋田毅『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』(感想)も統一教会の記述が充実していて興味深かった。あとは塚田穂高編の『日本の右傾化』(amazon)も面白かった。統一教会と政治家の話は鈴木エイトの『自民党の統一教会汚染 追跡3000日』を読むべきなのはわかっているのだけど、ヘイトと歴史修正で儲けてきた小学館にこの話で金を落とすというのがどうしても納得できず、いまだ未読。カルト国家に暮らしているんだという病識を正しく持つためには必読なんだろうと思ってはいるんだけどね……。

 8月の暑さのなか、部屋の本を捨てなければ新しい本が買えないという事実に直面し(増えていく『資本論』をどこに納めるかがきっかけだったんだろうか、もう覚えていない。)、捨てる本を選別するためには読まなければならないと考えて長いあいだ未読本として本棚の肥やしになっていた本に手を伸ばした。『フーコーの振り子』(amazon)や『イリアス』(amazon)はこの時期に読んだ。どっちもちょっと力を入れたら崩壊した。なにせ買ってから20数年が経っていた。本の層の下からハードカバー版『屍者の帝国』(amazon)が出土したのでこれも読んだ。出てすぐ買っていつの間にか所在不明になり見つからないうちに文庫版が出て歯がみをしていたのだけど、こんな話だったかととうとう知ることができた。

 ちょうどその頃、講談社文庫キンドル版の半額セールがあった。紙で持っていた辻真先のスーパー&ポテトシリーズが目に留まった。紙版は全部古本で買ったものであり、電子なら作者に印税が行く。半額なら揃えやすいし紙が始末できればスペースが空く、ということで、『急行エトロフ殺人事件』(感想)を皮切りに読んでいたものの再読プラス積ん読消費して全部電子に置き換えた。そうしたらスペースが空く快感とやっと作者に対価を払える安心感で講談社以外の文庫も電子に置き換える気になってしまい、電子買う→紙を読む→紙を処分するがルーティン化して、20年近くまえ辻真先にドはまりした時期以来の集中的な辻真先作品読書期となった。50冊くらい読み、『名犬ルパン』シリーズもやっと全部読めたし、スーパー&ポテトの初期六部作もようやく全部読め、瓜生慎の第3期『〇〇列車××号』のシリーズも全部読めた。面白いのもつまらないのもあったけど、1冊だけ選ぶなら『サハリン脱走列車』(amazon)だろう。

 残念ながら今のところ文庫はなく電子もなく入手するなら古書一択なんだけども、97年に出た本書、驚くべきは出版社の依頼によって書かれたものではなく、著者が出すあてもなく書き(執筆期間5年分量1000枚超)、持ち込みを行って出版にこぎ着けた作品なのである。著者90年代の頭どうなってんだろうってな出版ペースの裏で、さらに発表のあてがない原稿書いてたとか、マジで本物は違う。しかも――ネタバレになるから書けないんだけど――ほんとによくできてるんだ、これ。講談社電子だけでも作ってくれないかなあ。なお、電子置き換えができないのに本書を読んだのは著者の『鉄道ミステリ各駅停車』(amazon)を読んで出版経緯を知ったからだった。要するに期待値高く読み出したわけだったんだけど、それを超えていったのである。 
 辻真先を一日一冊ずつ読むのは50日くらい続けたのだけど、それに並行して毎日ちょっとずつ、ハーマン・メルヴィル 千石英世訳の『白鯨』(感想)も読んだ。感想に書いたように読もうと思ってから読了までに30年もかかった。読了して3カ月たってもまだ面白かったのかどうかよくわからない。
『白鯨』も『資本論』もいつか読もうと思っていたのをとうとう今年読んだのだけど、そういうデカい山が今年はもう一つあった。シェイクスピアだ。ちくま文庫版シェイクスピア全集は『ハムレット』(amazon)から『マクベス』(amazon)までの3冊は刊行時に買って読んだ(まだ10代だった)んだけど、4冊目の『夏の夜の夢/間違いの喜劇』(amazon)であえなく挫折し、それっきりにしていたんだけど、たまに古本屋とかで見かけて何冊か買っていたらしく、夏の本棚整理で並べてみたら8冊くらいあることがわかった。ざっと4分の1である。もしかして、今の勢いなら全部読めるんじゃないのか? と思い、まずは近所の古本屋を回ることにした(安くあげたかった)。そしたらさらに5冊くらい手に入ったので、残りは本屋に注文して全部揃え全部読んだ。正直題名を見ても(人物名が多い)、あらすじを読んでもそそられることが少ないし、読んだ話もストーリーライン的に面白い気はしていなかったのだけど、とにかく名台詞の宝庫って印象が強い。ならいっそのこと、素敵フレーズを拾うって方針で読めば読めそうな気もした。同じ方針でポエムだと割切って読んだらバルトの『テクストの快楽』(amazon)が読めちゃったのも大きかった(関係ないけど、今確認したら『テクストの快楽』絶版で新訳『テクストの楽しみ』(amazon)ってのが出てたのね。タイトルは旧訳のほうがいいと思った)。『ヘンリー六世』三部作が合本された巻と『ヘンリー四世』二部作が合本された巻は結構手こずったけれどもそれ以外はさくさく読めて松岡和子すげえって思った。1冊をあげるなら『マクベス』か『ハムレット』だけども、デマが共同体を破壊し尽くす話に見えた『オセロー』(amazon)、毒親の洗脳で人生間違えた挙げ句、親の踏み台にされてしまった子どもの悲劇に見える『コリオレイナス』(amazon)あらすじに書いてある悪役が早々に隕石にぶち当たって死んでしまいポカーンってなった『ペリクリーズ』(amazon)、喜劇と称してさっぱり笑えない『ヴェニスの商人』(amazon)『じゃじゃ馬ならし』(amazon)も印象に残った。

 例年は読了したものに限って言及することにしているのだけど、そうすると今年読了本が一冊もなかった小田嶋隆と津原泰水に触れることができない。ということで一冊すべて読んだわけではないけれどあと2冊だけこのエントリーで触れておきたい。順番は作者の亡くなった順で、ここまでと同じく順不同。
 小田嶋隆の冷静な文体で書かれたコラムは読むたび楽しかったし、何冊かはコラム集も読んでいたけれど、自分にとって小田嶋隆の印象を決定づけていたのはツイッターだった。だから小田嶋隆の本を1冊だけ選ぶなら、『災間の唄』(amazon)しかない。

 正直、出た当時はツイートまとめて値段つけるなんて安直な……と思ったのだけれど、著者が亡くなり、さらにツイッターがいつまで存続するかわからないなんて急展開が進む今となっては、よくぞまとめてくださいましたと武田砂鉄氏に感謝したい気持ちだ。

 津原泰水は『蘆屋家の崩壊』を読んだ2002年以降なんとなく気になり続けていて、5年くらいまえにマイブームが到来してあらかた読んだ。なんでもできる魔法使いみたいな人だった。どれ読んでも文章は格好良く美しく、それでいていささか読み切れなかった感じを残した。ある作家と別の作家の優劣を較べるのは難しいけれど、津原泰水に至ってはある作品と別の作品の優劣を付けることも難しい。一作ごとに全然違った世界を展開するからだ。もし別のタイミングでどれか一作と思ったら確実に違うものを選ぶと思うのだけど、今日この瞬間には「I,Amabie」を選びたい。短編集『スカートのアンソロジー』に収録されている。

 この作品ですごいと思ったのは文章表現技術はさておき(もちろんすごい)、サブプロット的に宗教2世の問題を扱っているところだ。発表は2021年で今年の夏以降のニュースを見て作られたわけではない。読んだときには天才はやっぱり天才だなと思い、もう新作が読めないという現実にあらためて落ち込んだのだった。

 改めて小田嶋、津原両先生のご冥福をお祈りしたい。

2022年9月28日水曜日

ハーマン・メルヴィル 千石英世 訳 『白鯨』

 
 読んだ読んだ!
 最初にこの作品に触れたのは高校入学直後の図書室で何やら立派な背表紙の世界文学全集(はて、どこの出版社のものだったか)に収まっているのをなんとなくめくったときに始まる。なぜほかの作品じゃなくこれを手に取ったのかはもはや定かではないが、コミカライズを見たのか、『ムーの白鯨』のイメージがきっかけだったか、せいぜいそんなところだろう。
 高校入学直後なんてまだグループ形成もされてないので昼休みが暇だった。なもんだから、暇を幸い読了できるだろうと思って数日図書室へ通い、イシュメイルがクイークェグと仲よくなったあたりまで読んだところで、教室内グループが固まってそれっきりになった。一度目の挫折である。
 で、次には新潮文庫か岩波文庫化に手を出した。まかりでたのはイシュメールだ、みたいな書き出しだった記憶があるが、このときもあえなく挫折した。
 読めない本というのは「もうこりごりです二度と触りません」と思うものと「うわあ、なんとかして読み終わりてえ」と思うものの二種類に分かれる。どんな要因かはよくわからない。『白鯨』はなぜか後者のカテゴリーだった。高校生のおれの死ぬまでに読みたい本リストに登録された。
 しかし、触れたバージョンの如何に問わず挫折していたのでよほど相性が悪いのも間違いない。受験勉強を経て英語がそこそこ読めるようになったあと、八重洲ブックセンターに初めて行って目移りしまくるなかで最初の一冊として本書の原書も買った(英語なら読めるのではないかと思ったあたり、調子に乗りすぎなお子ちゃまであった)が、もちろんそれまでのどのバージョンよりも早い段階で挫折した。
 読みたいが読めないが続いて数年、講談社文芸文庫から新訳の『白鯨』つまり本書が出た。速攻で買った。ほかのバージョンよりかは読みやすいと思い、おかしな予言者も登場し、ちゃんと船に乗り込み、ついにエイハブの登場シーンに到達。スターバックが出てきて、「おお、こいつがスターバックスの!」という感激も味わい、今度こそと意気込んだが中盤で挫折。二十世紀中の読破はならなかった。あちこち引っ越すたび、分厚い二冊組の文庫本は必ず一緒に連れて行ったが読めそうな気はせず、誰かが『白鯨』を引き合いに出して語るたび、「うわ、この人、あれ読んだのか」と尊敬と嫉妬の入り交じった気持ちになった。読み終えたなんて羨ましい。
 そんなわけで21世紀に入ってからは視界の端に入れつつも手は出ないという状況が延々と続いていたのだけど、今年の8月、やたらに本が読める時期がきた。自分的にはびっくりするレベル。理由は本棚を空けないともう買った本を入れる場所がないから大量の未読本を捨てるためにはとりあえず面白いかつまらないかわかる程度には読まないといけなくなったから。理由があれば漫然と読むときよりも挫折率が下がる。なんかなんでも読める気がする。いけいけどんどん気分で『フーコーの振り子』も読んだ。次は『白鯨』しかない! と、一世一代の読めるタイミングが到来したと考えて、久方ぶりに本書を開いた。思っていたより一章が長い。段落も長い。こんなもん、英語で読もうとしたら即白旗なのは当然だったなと思いながら、クイークェグが出てくるところまで読み進め、このくだりが面白かったのバディものっていうか、ボーイズラブっていうか、そういう要素がにおわされていたからじゃね? などと苦笑し、ヨナ記の再話を超え、二人の船主とチャリティーさんの紹介を超え、噂のエイハブ船長の登場から、戯曲風の変則場面を進みつつ、ピークォド号は海を行き始めた。
 途端に船ではなく、おれが難破しそうになった。本筋となんの関係もない、せっかく調べたら書かないともったいないよね、みたいなデータを紹介したいだけじゃないのかこれって章が続くこと続くこと。段落が少ないから息継ぎのタイミングもなくてここを突破するのは骨が折れた。脱線ならロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』のほうが激しかったし、一段落の長さで言えば『失われた時を求めて』を基準にすりゃ屁でもないと自分を励ましたけれど、しんどいものはしんどいのである。主筋なんて出航した後は「たまに鯨獲ったり、ほかの船と会ったりします」くらいのものなんだよ、下巻の600ページ近くまで。
 けれども地道にちょっとずつ進んでいくうち、ついに白鯨が姿を現し、絶望的なバトルが始まる……が、今読むと、エイハブが足を失った恨みで白鯨を追っているのはわかるけれども、白鯨を大悪魔みたいに読むのは無理があるよなあ、だって白鯨のほうはただ降りかかる火の粉を払ってるだけだもんなあ、などと思ってしまい(鯨をめぐる状況も変わっているし)、いまいち血湧き肉躍る感はなかった。読み終えたときも正直に言えば、感動とかどこにもなく、むしろ開放感(これでもう「読みたいけど読めない」みたいに思わなくていいぞ!)のほうが断然強かった。なにせほら、読み出してから読み終えるまでに30年かかってるから……。面白かったのかつまらなかったのかはこれから固まってきそう。本書の解説によれば、このバージョンで『白鯨』は十度日本語訳されたことになるそうである。たぶんそのあと、岩波文庫から新訳が出ていたと思うので最低11バージョンの日本語版が存在するわけだ。すごいことだよね。
 で、本書の特徴はおそらくだけど、スタッブっていうキャラクターの台詞がいきいきしているところ。決して主役ではないはずなんだけど、やたらに印象が強く、訳者のお気に入りはこいつかなと思ったり。逆にエイハブは長台詞が多い割にパンチがいまいちだったような気がした。これは訳者のせいかメルヴィルの原文のせいかはよくわからない。カリスマ性を描くっていうのはなかなか難しいからねえ。ましてや書かれた時代と読んだ時代に200年近い隔たりがあるとなれば。
 もちろん、そんなことあげつらうよりも、この大著を日本語に移した訳者(すべてのバージョンの訳者)の努力に敬意を払う気持ちのほうが十倍大きい。とても真似できねえなと10ページに一回くらい思いながら読んでいた。
 それと、まだ新刊で手に入る状態を維持している講談社文芸文庫の判断もすごい(出たの2000年だからね)。
 あまりの長期間プロジェクトが終わった気分なのでさっぱりまとまりが作れないからこの辺でやめておくか。
 

2022年8月7日日曜日

樋田毅 『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』

 

  
  一九八七年五月三日に兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局が散弾銃を持った目出し帽の男に襲われた。当時二九歳の小尻知博記者が射殺され、当時四二歳の犬飼兵衛記者が重傷を負った。この事件を含め、約三年四か月の間に計八件起きた 「赤報隊」による襲撃・脅迫事件は、二〇〇三年三月にすべて公訴時効となった。記者が国内で政治的テロによって殺された事件は、日本の言論史上、ほかにはない。
 という書き出しで始まる本書を読もうと思ったのは、ツイッターで流れてきたきた以下の引用箇所に驚いたからだった。

α日報の記者だった頃、田中さんの指示で定期的に朝日新聞のN編集委員に会い、田中さんから預かった五万円ないし一〇万円の金を渡していたんです。彼は被害者の父母の会の情報などをα教会に流していた。また、α教会などの批判記事を抑えてもらうことへの報酬でした。朝日新聞東京本社の編集局に金を持って行ったこともあります。週刊誌のページを切り抜いて一万円札を順に貼り付け、この週刊誌を紙袋に入れて、人目もはばからず彼に渡すんです。(167ページ)

 このα日報ってのは『世界日報』のこと。α教会は統一教会。田中は仮名。証言があったのは 1992年。なお、著者はN編集委員の立場で同僚記者の記事の出稿を抑えることは不可能だったはずだと述べてもいる(171ページ)。それはさておき、ファーストインプレッションとして、流れてきた引用見て「何それ」と思ったわけ。だってさ、赤報隊事件についてなんて、最初の引用の「この事件を含め、約三年四か月の間に計八件起きた」の部分も知らなかったから、ずっと右翼の言論テロだと思ってたんだよね。なんでここに統一教会の話? って疑問から読んでみた。そしたら前書きのなかで、

 キリスト教系の新興宗教団体、及び関連政治団体についても、同様の視点で初めて真正面から取り上げた。大規模な合同結婚式などで世間を騒がせた教団だが、一連の襲撃事件当時、霊感商法や国家秘密法などの報道を巡って朝日新聞と緊張関係にあった。捜査当局も、この教団に対して重大な関心を寄せ続けたが、事件との関わりを解明できなかった。しかし、私は取材の過程で知ることになった「事実」を、 歴史の闇に葬り去る訳にはいかないと考えた。
 この教団は、隣国の韓国で創設された。韓国を他民族に優越して救われる「選民の国」とし、日本を「サタン(悪魔)側」と位置付ける。日本社会には、戦前まで朝鮮半島を植民地支配してきたことに対する「贖罪意識」が色濃く残っている。この教団は、こうした贖罪意識に乗じる形で信者を増やし、「霊感商法」という詐欺まがいの資金集めを続け、敵対者への巧妙な攻撃などを重ねてきたとされる。宗教や信仰への配慮などから、これまで書いてこなかった取材内容に改めて驚かれる読者も多いと思う。
 当初の原稿はすべて実名で書いた。しかし、取材対象者への配慮から、 一部を除いて仮名にさせていただいた。前記のキリスト教系新興宗教団体については、教団名はα教会(または教団)、教祖はα氏(またはα教祖)、関連の政治組織はα連合(または関連政治団体)、学生組織はα研究会(またはα運動)、関連の新聞社はα日報とそれぞれ表記した。各人物の肩書きは取材当時のもの、年齢は二〇一八年一月現在で表記した。
 とあった。統一教会が「一連の襲撃事件当時、霊感商法や国家秘密法などの報道を巡って朝日新聞と緊張関係があった」というのは、以下の経緯があったからだ。
C記者とN編集委員が「α教会とα連合を取材すべきだ」と強く主張した根拠はいくつもあった。
 α教会については、いわゆる霊感商法の問題があった。先祖の怨念・祟りを浄化するために効果があると称して、壺や念珠、多宝塔などを法外な値で売る。当時、 α教会の信者らが全国各地でこうした商法を展開しており、朝日新聞と朝日新聞社が発行していた週刊誌『朝日ジャーナル』(現在は休刊中)が、被害者救済に取り組む弁護士グループなどと連携し、「詐欺的商法」として糾弾キャンペーンを続けていた。(135ページ。なお、ここで出てくるN編集委員はお金を受け取っていたという話が出ていた人と同一人物。)

 朝日新聞は1967年から原理運動を批判的に取り上げており、「信者らが朝日新聞に敵意を抱く大きな理由とも言われていた」。また、阪神支局襲撃事件から三日後の一九八七年五月六日には、東京本社に「αきょうかいの わるくちをいうやつは みなごろしだ」と書かれた脅迫状も届いている。脅迫状が入っていた封筒には、散弾銃の使用済みの散弾容器二個も同封されていたそうで、それは阪神支局襲撃に使用された散弾と同じメーカー、同じ種類のものだった(製造国に違いはあった)。しかも、脅迫状が届いた時点では、阪神支局襲撃に使用された散弾の情報は新聞でもテレビでも、まだ報道されていなかった。封書の消印は当時、α教会の本部があった渋谷 。 なるほど、そりゃ取り上げる。

 そんなわけで本文は阪神支局襲撃事件から説き起こし、八件の襲撃・脅迫事件を略述した後、取材対象とのやり取りの紹介に入るという流れ。取材対象は前半が右翼関係者、後半が統一教会関係者。

 もちろん扱っているのは公訴時効を迎えた未解決事件なので「犯人はこいつだ!」みたいな記述はない。たとえ状況証拠を示しても「決め手に欠ける」としっかり書いて読者が飛躍した結論へ飛ぼうとするのに釘を刺す。事件解決へのカタルシスはさっぱりない。現在品切れなのも、半分はそうした結論部分の弱さのせいなんじゃないかと思った。

 ただ、焦点をちょっとずらすと、統一教会の浸透ぶりがよくわかる本というふうに姿を変えるのが、実はその点こそがこの本の真価なのではないかと思った。

 一例を挙げると178ページの2002年の信者インタビューがある。取材対象の清元氏(仮名)は共勝連合の一員。教団に敵対する動きへの対処協議する「対策委員会」のメンバーを70年代から務め、陰の仕事を担当していたという。赤報隊事件への教団の関与を否定するなかでさらっとこんなことを言っている。

「七〇年代後半、清元さんの下で特殊部隊が作られたと思いますが」(V記者)
「特殊部隊って何でしょう」(清元氏)
「名称はよく分かりませんが、たとえば諜報活動とか。 公然ではない、いろいろな情報活動、今の国の動きをウオッチングするとか」(V記者)
「それなら私も関係していました。やっぱり国を変えるということは、政治家を変えなきゃいけないということですから。そのために、具体的に政治家に秘書を送り込むとか、それを通して政治家に対して、要するに教祖の思想を啓蒙するということは一貫してやってきました。そのための勉強会もやりました」(180ページ 太字は引用者)

「特殊部隊の話に戻りますが、高谷教会長の直轄で、清元さんが全体を取りまとめて、非常に限られたメンバーで、その人たちは教会の籍も抜けて、名前も消して集まったと聞いているんですが」(V記者)
「いや、ちょっと待ってください。その話、私は認識が違います」(清元氏)
「我々は、長い間取材をしてきて、おたくの組織の中でそういう仕事ができるのは、力量というか、人格というか、清元さんしかいないという認識です」(V記者)
「そのことに関して、ちょっと、分からないですね。私に力量があるかどうかは別にして、高谷教会長と一緒に、特に自民党に対する、議員の先生方の啓蒙というか、そういったことは、よくやっていました」(清元氏) (182ページ 太字は引用者)

  2022年の今読めば、これは茂木幹事長の言い逃れを粉砕する証言だ。党と教団べったりじゃないですかやっぱり。自民党への浸透の話はここだけではなく、176ページにも、元『世界日報』記者の発言として、「α連合は創設当時から、自民党政治家への食い込み、影響力拡大に力を注いでいた。東京のスパイ防止法制定促進国民会議、各地のスパイ防止法制定促進市民会議もα連合が組織したという。教団の信者を自民党右派の国会議員や地方議員の秘書、さらには選挙運動の手足となる運動員として送り込み、「α派議員」を増やそうと躍起になっていたという。その一方で、α教会の裏の仕事、陰の仕事を請け負うのもα連合だった」(176ページ)と出ている。ここでいう「α派議員」の集まりが先日ちょっと話題になった「日本・世界平和議員連合懇談会(平和議連)」なんだろう。(参考:「山上容疑者は家庭がしっかりしていれば」旧統一教会系の自民議連トップ 奥野議員が激白

 また、こんな記述もある。

 全国の右翼の取り締まりを統括するのは警察庁の公安二課である。だが、事件のしばらく後、警察庁担当編集委員となっていたL記者の紹介で会った公安二課長(故人)の発言内容はにわかに信じられなかった。

「初めに言っておきますが、私は右翼を取り締まり対象とは考えていません。 彼らの愛国心、愛国的行動は評価しなければならない。ただ、日教組の大会などで社会ルールから逸脱する行動をすることが時折あるので、その時は彼らを善導してやるのが警察の任務です」(201ページ)

 この記述に176ページの「α連合は、自治省(現在の総務省)に届け出て、認められた政治団体であり、前述のように様々な右翼団体ともつながりを持っていた」、当時の「教会長は、立正佼成会の会長秘書だった人物で、知る人ぞ知る民族派だった。 香山α連合理事長や、襲われた田中さんを含めて、α教会・α連合の日本人幹部は生長の家の出身者が目立った。思想的にも右翼や自民党右派と結びつきやすかった」(名前は仮名)という記述を重ねて読めば、冷戦を背景に自民党や公安に統一教会がどうやって浸透していったのかが想像できる。 怖いのはこうした証言が取材時点では「赤報隊の話のついでとして」語られている=無駄な作り込みがされていないということだ。

 先に「現在品切れなのも、半分はそうした結論部分の弱さのせいなんじゃないかと思った」と書いたけれども、品切れの理由のもう半分は、こうした読みどころの紹介を岩波がやっていないことに起因しているのではないかと思われる。本書で紹介されている中曽根政権の反動政策のいくつかは安倍政権が繰り返した。が、たとえば朝日新聞は中曽根時代に行ったような反対紙面作成を安倍政権では行えなかった。言論の自由はなし崩しになりつつある。そうした現在、過去にあった朝日新聞の言論の自由への攻撃モチーフの未解決事件を売るのは難しいのかもしれないが、自民党と統一教会の癒着が取り沙汰されているこのときを商機に思えない岩波の鈍さが残念でならない。すぐに増刷して、自民党と統一教会の関係が読みどころの一つだというかたちで売り込んで欲しい。

2022年8月1日月曜日

永田浩三 『NHKと政治権力 番組改編事件当事者の証言』


政権党の有力政治家とNHK最高幹部が放送直前に接触し、慰安婦問題を扱った番組は著しく改変されてしまった。裁判の場でも争われ、多くの人々の関心を集めた二〇〇一年の事件の真相について、担当プロデューサーが沈黙を破って全過程を明らかにした。放送現場での葛藤、政権党と癒着するNHK幹部の姿勢を克明に記した本書は、NHK番組改変事件を知る上で最良の一冊である。関連資料収録。

 2001年に起きた、ETV特集シリーズ「戦争をどう裁くか」の第2夜放送「問われる戦時性暴力」への政治介入問題を番組プロデューサーだった著者が語った本。なんだけども、正直、本線のNHKが政治に忖度して隠蔽を図りましたってところにも関わった人たちのあれこれにもあんまり興味がなくて、じゃあなんで読んだのかって言えば、安倍元首相の成功体験ってこれが最初だったんじゃないの? と思ったから、なんとなく確認がしたくなってだったりする。

 本稿執筆時点では自民党と旧統一教会の癒着が話題になっている。きっかけは安倍元首相が暗殺され、犯人が旧統一教会信者二世だったことから、安倍元首相が旧統一教会関係団体の広告塔やっていた話がクローズアップされ、そこからあいつもこいつもと掘り返しが進んだことである。

 正直に白状すると、安倍元首相が殺される前は安倍元首相と旧統一教会の癒着について、情報として知ってはいても(ネットでは有名な話だった)、たとえば日本会議とか神道政治連盟とかと同じく怪しい関係の一つ程度の認識だった。例の挨拶動画(youtube)も見ていたけど、キモい以上の感想はなく、霊感商法のツボカルトと安倍元首相がくっついているのはむしろお似合いだくらいの認識だった。

 で、事件後に旧統一教会の教義なんかを目にするようになって(例のエバ国家ってやつね)はじめて「おや?」と思った。安倍政権に群がる有象無象って、愛国を旗印にしてたのに、なんでこんな教義のカルトと相乗りできるの? と不思議になったのである。てっきり「韓国にデカい顔したい」くらいが共通の目標かと思っていたのだけど、日本の信者の金を韓国の本部に送金させまくるカルトとくっついているのに、「それじゃ自分たちは応援できません」とならずにいるんだから、「愛国」も建前で「ほかの相違点は棚上げしてもこれだけは達成したい」なポイントはどうやら別にあるらしい。じゃあそれはなんだろうと考えた結果、思いついたのが「健常な男性異性愛者以外は二級市民という社会の維持」なんじゃないかということだった。

 なんてことを考えていたときに、ツイッターの#この時点で気づくべきでしたってタグが目に入り、色んな事例が流れて消えていった。それを見ながらさて、どの時点で気づくべきだったのかと考えた。自分が安倍のことを権力握らせちゃいけないタイプと思ったのは、メディアの露出が増えた2004年くらいからだったので、割と早いほうだったんじゃないかという気がする(それだけに二次政権発足したときの世の中の、というかまわりの人間との認識ギャップに苦しんだし、友達も減った)のだけど、上記のような支持勢力の考えというところは、理解が雑で全方位的差別思想を武器に「戦前回帰」とか「家柄による階級固定」を目標にしていると認識していた。見えているものをそのままに取ればこうなるからだ。ところが、「健常な男性異性愛者以外は二級市民という社会の維持」を目標にしていると考えると、気づくべきだった時点はもしかすると、2001年の番組改編だったんじゃないか? と思い至った。それでこの件を取り上げた本書を読んでみることにした。

 感想としては直感大当たりという感じであった。本書では、十数年後に話題になる日本会議の名前がすでに出ていたのをはじめ、第二次安倍政権下で繰り返された話のプロトタイプのような展開が描かれている。偏向の言葉でNHKを萎縮させつつ、内部の子飼いにデマを飛ばさせて組織内の反発を起こしにくくさせ、介入の存在は隠蔽する。屈服を潔しとしない人は孤立無援に陥る。2010年代に繰り返された光景がすでに展開していた。

 特に印象的だったのは168ページに引用されている松尾武元総局長の言葉だ。

先生はなかなか頭がいい。抽象的な言い方で人を攻めてきて、いやな奴だなあと思った要素があった。ストレートに言わない要素が一方であった。「勘ぐれ、お前」みたいな言い方をした部分もある。

 「先生」というのは安倍のことだ。「勘ぐれ、お前」は、安倍の発想のコア・エッセンスだろう。この恫喝により、NHKはちゃんと安倍の意向を「勘ぐり」番組内容を改変、識者のコメントに至っては話した内容の順番まで入れ替え発話時とまったく違うものに仕立て直して、その識者の信用を毀損する事態になってしまう。これも2010年代のプロトタイプっぽい。

 そして、放送後、VAWW-NET(女性国際戦犯法廷の主催団体)が起こした裁判でも、2010年代のプロトタイプが記録されている。高裁の判決文にそれは出ていた。

本件番組に対して、番組放送前であるにもかかわらず、右翼団体等から抗議等多方面からの関心が寄せられて一審被告NHKとしては敏感になっていたこと、折しも一審被告NHKの予算につき国会での承認を得るために各方面への説明を必要とする時期と重なり、一審被告NHKの予算担当者及び幹部は神経を尖らしていたところ、本件番組が予算編成等に影響を与えることがないようにしたいとの思惑から、説明のために松尾を野島が国会議員等との接触を図り、その際、相手方から番組作りは公正・中立であるようにとの発言がなされたというものであり、この時期や発言内容に照らすと、松尾と野島が相手方の発言を必要以上に重く受け止め、その意図を忖度してできるだけ当たり障りのないような番組にすることを考えて試写に臨み、その結果、そのような形へすべく本件番組について直接指示、修正を繰り返して改変が行われたものと認められる。 215ページ 太字は引用者

  2010年代日本政治有数の流行語「忖度」が出てきていたのだ。安倍まわりで使われた「忖度」の用例としては最古かもしれない、これ。さらに思わず笑ってしまったのが222ページの記述だ。

このとき東京高裁が使った「忖度」という言葉は、その後NHKの番組製作の現場では、流行語のようになりました。

 時代先取り過ぎ。この本は2014年に出版されたものなので、当然著者は数年後に「忖度」が人口に膾炙することなど知らなかったわけで、あのときどんな気分だったんだろうと思った。ちなみにこの箇所はさらにこう続く。

そんたく。岩波国語辞典では「他人の気持ちを推し量ること」とあります。つまり、NHKの幹部たちは、政治家の「公正・中立」という言葉を額面通りに受け止めたのではなく、その言外にある、もっと強烈な意味を推し量って、それにもとづいて、編集を繰り返したというわけです。松尾さんは、安倍晋三氏から、「勘ぐれ、お前」と言われたと語ったとされています。この言葉は、のちに安倍氏は否定していますが、勘ぐれというのは、まさに忖度という言葉と、表裏の関係にあります。
 しかし、どうなのでしょうか。たしかにNHK自身の自己検閲は情けないことではあります。しかし、NHKだけを責めることは、少し酷な気もしてきます。具体的な指示はなかったとしても、あきらかに脅しをかけられたことが、推察されるからです。

 この解説、森友問題発覚後にそのまま使えると思わん? ウィキペディアの項目には記述されていないのだけども、東京高裁はNHKの不法行為を認定した。NHKは上告し、同時にメディア戦略も活発に繰り広げ、メディアの多くがそれに同調し、保守的だと評判だった判事が原告の訴えを退けて裁判は2008年に結審した。BPOが意見書を出したがNHKは無視を決め込んだ。

 全体にあまりにも既視感(同じ方程式使ってる感じ)があってくらくらするくだりが多かった。2010年代の醜悪な政治状況は、2001年の1月には予告されていたようにも思った。というよりむしろ、このときにあんまり上手くいったんでメディアは制御できると安倍は学んじゃったんだろうな。その結果、今に至るまでこの事件の変奏を散々見せつけられることになった。安倍の権力が増すに従って、発生場所は広がり、影響の大きさは甚大になって、自殺者まで出ることになったが、方程式はこのときに完成したものが繰り返し利用されているように思われる。驚くべきことには、安倍本人が撃たれるって事件が起きてからも、システムが自動的に動いているように見えることだ。もはやコントローラーは存在せず慣性だけが働いているのかもしれない。そういう意味で、2001年1月のこの出来事は今に至る方向を決定づける画期的な出来事だったんだろう。

 正直に言えば、この本は話の流れが掴みにくいし、プロデューサーだった著者の言い訳にしか読めないところもある。出来事に対するスタンスが変化する段階もよくわからず、所属が変わったのが理由? とゲスの勘ぐりを入れたくなりもする(おそらく原因は著者の表現能力にあって所属云々ではないんだけども)。けれども、この時代がどこでどうやって発生したのかを伝えている点で、この本はとても貴重な記録を提供してくれている。そして、この本がいつまで生きているかはわからないけれども、この時代が終わるまでは読む価値を持ち続けるんだろうとも思う。安倍はトランプに「私は朝日に勝った」とほざいたらしいけれど、NHKに勝ったことのほうがよほど大きな勝利だった(逆に言えば、ここで語られるNHKの屈服だか敗北だかは、番組一本の話でも放送局一つの話でもない深刻な敗北だった)といってよさそうだ。納得しつつも憂鬱。


2022年7月24日日曜日

丸山眞男『超国家主義の論理と心理』より引用


我が国家主権は(略)形式的妥当性に甘んじようとしない。国家活動が国家を超えた道義的基準に服しないのは、主権者が「無」よりの決断者だからではなく、主権者自らのうちに絶対的価値が体現しているからである。それが「古今東西を通じて常に真、善、美の極致」とされているからである(略)従ってここでは、道議はこうした国体の精華が、中心的実体から渦紋状に世界に向って拡がって行くところにのみ成り立つのである。「大義を世界に布(し)く」といわれる場合、大義は日本国家の活動の前に定まっているのでもなければ、その後に定まるのでもない。大義と国家活動とはつねに同時存在なのである。大義を実現するために行動するわけだが、それと共に行動することが即ち正義とされるのである。「勝つた方がええ」というイデオロギーが「正義は勝つ」というイデオロギーと微妙に交錯しているところに日本の国家主義論理の特質が露呈している。それ自体「真善美の極致」たる日本帝国は、本質的に悪を為し能わざるが故に、いかなる暴虐なる振舞も、いかなる背信的行動も許容されるのである! p.21(太字は原文傍点) 

純粋な内面的な倫理は絶えず「無力」を宣告され、しかも無力なるが故に無価値とされる。(略)倫理がその内容的価値に於てでなくむしろその実力性に於て、言い換えればそれが権力的背景を持つかどうかによって評価される傾向があるのは畢竟(ひっきょう)、倫理の究極の座が国家的なるものにあるからにほかならない。p.22

我が国の不幸は寡頭勢力によって国政が左右されていただけでなく、寡頭勢力がまさにその事の意識なり自覚なりを持たなかったということに倍加されるのである。 p.31

自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者(従って究極的価値(天皇:引用者註)に近いもの)の存在によって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲して行く事によって全体のバランスが維持されている体系である。これこそ近代日本が封建社会から受け継いだ最も大きな「遺産」の一つということが出来よう。 p.32