2019年5月21日火曜日

ジェフリー・ディーヴァー 池田真紀子訳 『ボーン・コレクター』





 『アガサ・クリスティー完全攻略』(感想)で、何度もディーヴァーへの言及があったために、うっかり載せられて読んでみた。リンカーン・ライムシリーズ第一弾。名前はもちろん知っていたのだけども、映画版(amazon)を二十年近くまえに見ていて(アンジェリーナ・ジョリーが出ていたことも忘れていたよ)のもあって手に取らず、一作目のこれを読まないからシリーズの後続作品も読まずでずっときていた。褒めてる人が多いのはわかっていたんだけどもね。なのに、直接褒めまくってるわけじゃない『完全攻略』がきっかけになるんだから我ながらよくわからないのだけれども、これも『完全攻略』の熱さゆえのことであろう(感想では一部けなしているが、熱い本なのは間違いないんだ、ほんとに。だから残念だって話で)。ついでに言うと、映画の内容をほとんど綺麗さっぱり忘れるだけの時間が経ったというのもある。もうね、最初のほうのライムがケガした場面しか思い出せなくなっていた。

 で、読んだんだけど、面白いね、これ。国際会議期間に起きた誘拐事件から始まり、地面から手だけ出ていて、皮膚をそがれた男性の指に女ものの指輪がはまっているという冒頭のインパクト。有名になりすぎているために、っていうか、あらすじ紹介にまで書かれてしまっているから効果が失われているライムの設定を隠すような描写。そして始まる連続タイムリミット・サスペンス。上で書いた「女ものの指輪」は犯人からのメッセージで「次の被害者がいるぞ」。それと現場の鑑識で見つかった手がかりから被害者の居場所を特定して追いかける。生きているうちに発見できるのか。そして犯人の目的は? 国際会議との絡みでテロが疑われ、FBIとニューヨーク市警のどっちが事件を担当するかをめぐる葛藤も。でもって、ライムや女性刑事のアメリア・サックス自身のやりたいことも事件によって阻害されるといった按配で要素がよく絡んでる。

 割と目にするディーヴァー評にはページターナーという言い方がある。のだけども、今作に関しては設定が出揃ったあと、少し単調になるところもあった(下巻の出だしくらい)。タイムリミットサスペンスを並べているだけでインフレしてないからだろう。慣れるのである。

 なんだけども、そこを抜けたあと、下巻の282ページからは確かにページをめくる手が止まらない。そして309ページからのめくるめく展開。これ、無駄じゃない? という要素ががちんとプロットに組み込まれ、さらには機能を終えたと思う要素が復活し「うわ、そう来るの!」と爽快な笑いさえ洩れながら読了した。ほんと、このあたり全ネタバレで喋りたいくらいよかった。

 読み終わって思い出したのは、昔友達に誘われて出かけていったフジロックである。おれは聞いたこともないようなミュージシャンが何人も出てきて、わけもわからないままピョンピョン跳ねていたなか、突然、井上陽水が現れて『少年時代』を歌った。それぞれに尖ってるっぽい客がみんな、夏が過ぎ風あざみな雰囲気でまったりと耳を傾け、場の雰囲気が揚水色に染まった。そのとき思ったのは、「いや、ずっと一線で、みんなが知ってるような人ってのは、やっぱりすげえもんである」ということだった。何が言いたいかというと、ディーヴァーもそんな感じで、みんなが長い期間(←ここ大事)褒め続けている作家はやっぱり手を出してみるだけの価値があるということだ。読んでよかった。



ボーン・コレクター 上 (文春文庫)


ボーン・コレクター 下 (文春文庫)

2019年5月15日水曜日

石川淳 『天馬賦』



 このブログ立ちあげたあたりから、なぜかまったく小説を読んでいなかった。で、先日『石川淳評論選』(amazon)を読んで、全体は砂を噛むような読書だったけれども、何か動きを書いてるときには、やっぱり独特の魅力があるなとか思い、本棚の肥やしになっていた本書を引っ張り出した。短編集。
 収録作品は「靴みがきの一日」「鸚鵡石」「無明」「鏡の中」「一露」「若菜」「虎の國」「天馬賦」の8本。タイミングが悪かったのかあまりピンと来る作品にはぶつからなかった。あえて言えば、「鏡の中」がいちばん読んでて楽しかったかなあ。昔の知り合いが理髪店の店主のところに尋ねてきて……って話。時代物はどれも何がやりたいのかよくわからなかった。アクションはキレがあると言えばあるんだけど、全体としては「はて」ってな感じ。ただ、たとえば「若菜」の書き出し

黒っぽい頭巾をした老人がそこにむっくりうづくまっていた。なにものかがいるような気がして、ふと目をあげると、英三は火鉢の向うにその老人のすがたをみとめた。しぜん炭をつぎかけていた手をとめて、ぢっと見つめるうちに、こいつはどうやら利休ではないか、いや、てっきり利休の亡霊にちがいないと、英三はおもった。そうおもった以上、もはやそれよりほかのものではない。太閤に殺された利休である。(原文旧字旧かな)
などは、「焼跡のイエス」(感想)なんかを思い出してちょっと楽しかった。そういえば、「紫苑物語」(感想)って歌劇になったんだってね。どっちかというとスーパー歌舞伎とかにしたほうが似合いそうな気がするのだけど(大穴はアニメ)、どんな仕上がりなんだろう。
 全然褒めてはいないのだけど、この作家がすげえのは、こんな感想しか残らないのに読んでるときの文章自体は読んでて結構気持ちがいいってところなんだよね。相性の問題だろうけど。なんですでに次は何を読もうかと考え中だったりする。いつ読んでもそこは不思議。


天馬賦 (中公文庫)

2019年5月14日火曜日

清沢洌 『暗黒日記 1942-1945』




太平洋戦争下,豊かな国際感覚と幅広い交友をもとに,当時の政治・経済状況や身辺の生活をいきいきと記した希有な記録(原題「戦争日記」).外交評論家・清沢洌(一八九〇―一九四五)は,将来日本現代史を書くための備忘録として,この日記を書きつづけたが,その鋭い時局批判はリベラリズムの一つの頂点を示している.人名・事項索引を付す.
名前だけは以前から知っていた本で、ずっと戦中の日記なんて読んでも実感としてはわからんだろうとスルーしていた(『きけ わだつみのこえ』(amazon)を若いときに覗いて得た実感に基づく)のだけど、政治がとち狂い続けている現状なら、逆に面白く読めるのではないかと思って手に取った。直接的には『流言・投書の太平洋戦争』(感想)に出てきた引用を読んだのがきっかけだったような気がする。戦争が終わったら書こうと思っていた著作の準備として記された日記で、戦争が終わるより早く著者が亡くなってしまったために尻切れトンボな感じはぬぐえなかった(最後のエントリー(?)は結婚式に出てスピーチしたって話で終わってるし)。

 読んだ結果として主な感想はふたつ。ひとつは「やべえ、ほんとに現在と当時の差がそれほど大きくない」。太鼓持ちのジャーナリスト(名前が何度もあがっているのは徳富蘇峰)や、馬鹿な政治家が精神論だけ唱えていて、無知な大衆がそれを鵜呑みにして、そういうのを量産してる原因は教育にあって、そこから変えなければいけない、みたいな話はそのまま今日の社会批評でもお目にかかるような気がする。そういう意味では大日本帝国がぶっ潰れて一面焼け野原になったのは、あくまでも環境がリセットされただけだったんだなというふうに思った。白井聡が『永続敗戦論』(感想)で、「自主的決意による革新・革命の絶対的否定を意味するもの」「絶対的に変化を拒むもの」とまとめた国体はしっかり残ってるわ、やっぱり。

 もうひとつは「リベラリズムの一つの頂点ってこんなもんか」。リベラリズム偏差値的には結構高かったんだろうと思うし、世の中のあれこれが今よりさらにおかしかった時期に、よく素面でいられたなという気もするのだけど、国体護持って目標は著者も共有してるんだよね。教育の不備を嘆いているのに、それが国体に都合のいい教育カリキュラムだという点は無視している節がある。戦争の結果、天皇の責任が問われないことを願っていたり、明治天皇や伊藤博文持ちあげていたりってところも、まあ、当時の知識人だからなあと思いつつ、「リベリズムの頂点低くね?」と、首をちょっと傾げながら読んだ。もちろんこれは人間が真空状態で思考できない=どんなに頑張っても環境の影響を受けるってことなんだろうとは思う。あんまりにも悲惨な知的社会的荒廃のなかで暮らしているのだから、原点がこちらの求める地点とは違っているのだ(し、だからこそ、今読んで参考になるところもあるわけだ)。

 岩波文庫が本書を出したのは好景気に沸き、ベルリンの壁も崩れちゃった直後の1990年。当時は往事を懐かしむ資料にしかならなかったんじゃないかという気もする。むしろ今こそ読まれるべき本(今がどの程度おかしいのかの指標をくれるから)だと思うんだけども、岩波文庫もちくま学芸文庫も品切れで、新刊で入手できるのは評論社のクソ高いバージョン(amazon)だけなのが、なかなかままならない感じがする。今復刊したら売れると思うんだけどな。アメリカじゃトランプ政権発足で『1984年』(amazon)が売れるようになったみたいな話あったじゃん。あれと似た需要が寝てる気がしてならない。本書とついでに本書で何度も取り上げられて褒められていた正木ひろしの『近きより』をまとめて出してくれないかなあ、岩波でも筑摩でもいいんだけどさ。


暗黒日記―1942‐1945 (岩波文庫)

2019年5月12日日曜日

白井聡 『永続敗戦論』



『国体論』(感想)が面白かったので、遡る形でこちらも読んだ。原発事故、領土問題などをトピックに耐用年数がとっくに切れてしまった「戦後レジーム」の正体を分析する本ってところだろうか。タイトルになっている「永続敗戦」とは、敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(=それを否認する)ために、際限なき対米従属を対価を払い続ける体制のこと。この構造が戦後の根本レジームであると著者は言う。

事あるごとに「戦後民主主義」に対する不平を言い立て戦前的価値観への共感を隠さない政治勢力が、「戦後を終わらせる」ことを実行しないという言行不一致を犯しながらも長きにわたり権力を独占することができたのは、このレジームが相当の安定性を築き上げることに成功したがゆえである。彼らの主観においては、大日本帝国は決して負けておらず(戦争は「終わった」のであって「負けた」のではない)、「神洲腐敗」の神話は生きている。しかし、かかる「信念」は、究極的には、第二次大戦後の米国による対日処理の正当性と衝突せざるを得ない。それは、突き詰めれば、ポツダム宣言受諾を否定し、東京裁判を否定し、サンフランシスコ講和条約をも否定することとなる(もう一度対米開戦し、勝利せねばならない)。言うまでもなく、彼らはそのような筋の通った「蛮勇」を持ち合わせていない。ゆえに彼らは、国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの「信念」を満足させながら、自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける、といういじましいマスターベーターと堕し、かつそのような自らの姿に満足を覚えてきた。敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く――それが「永続敗戦」という概念が指し示す状況である。
『国体論』にしても本書にしても、知らなかった論理は結構あるけれども(個人的には、本書でならそれは二章の領土問題の部分に集中して現れた。)大半の読者にとっては新しいパースペクティブが広がる気持ちを味わえる箇所は多くない。考えるまでもなく、われわれは「侮辱のなかに生きている」し、「対内的にも対外的にも無能で『恥ずかしい』政府しか持つことができず、そのことがわれわれの物質的な日常生活をも直接的に破壊するに至ることになる(福島原発事故について言えば、すでに破壊している)という事実」に直面している。無際限な対米従属はずっと日常の景色である。それが「われわれの知的および倫理的怠惰を燃料としている」のも体感として知っている。著者自身、「本書を書くにあたって何か新しいことを言いたいとは思わなかった」「本書は、これまで何度も指摘されてきた、対内的にも対外的にも戦争責任をきわめて不十分にしか問うていないという戦後日本の問題をあらためて指摘したにすぎない。」とあとがきで述べている。ではなぜ本書は書かれたのか。

いま必要なことは議論の目新しさではない、「真っ当な声」を一人でも多くの人が上げなければならない、という思いに駆られて私は本書の執筆に取り組んだ。
そして、その際、支えとしたのはガンジーの次の言葉だったという。

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」
なんていいこと言うんだ、ガンジー。そしてこの言葉を支えに本書を書ききった著者は最後にこう訴える。
「侮辱のなかに生きる」ことに順応することは、「世界によって自分が変えられる」ことにほからならない。私はそのような「変革」を断固として拒絶する。私が本書を読む人々に何かを求めることが許されるとすれば、それは、このような「拒絶」を共にすることへの誘いを投げ掛けることであるに違いない。
本書親本が出た2012年(「対外関係をめぐる幼稚で無知なわめき声」が喧伝された時期)から7年近く、文庫本が出た2016年(対米従属を加速させるための安保法制施行)から3年近くが経った。森友疑惑から始まった、縁故主義、公文書改竄、勤労統計不正などの露呈、うち続く外交の失敗はいよいよもってわれわれが「侮辱のなかに生きている」現実を突きつけている。であればこそ、著者の呼び掛けは重要だ。なぜならこの「変革」とやらは旗振り役すらどこへ向かおうとしているのかわかっちゃいないことがすでに明らかである以上、どんな理想を持つ人であれ、(つまり、右翼っぽい考えの人でも左翼っぽい考えの人でも政治に関心がない人でも)、拒絶しない理由がないからである。もし、今のような支離滅裂な政治によって「自分が変えられる」ことを甘んじるなら、奴隷に墜ちるしかない(たとえば、前回消費税アップを社会福祉費のためには仕方ないと受け入れた結果を見て、怒る気にもならないとすれば、その理由はすでに奴隷の価値観に染まっているからだ)。煎じ詰めれば、著者は「人間たれ」と訴えているのだと思われる。そして現在において、これほど重要なメッセージはあまりない。


永続敗戦論 戦後日本の核心 (講談社+α文庫)

2019年5月10日金曜日

瀬戸賢一 『日本語のレトリック 文章表現の技法』


 さまざまなレトリックをコンパクトにまとめて紹介した本。
 取りあげられているのは、

  • 隠喩(暗喩、メタファー metaphor)
  • 直喩(明喩、シミリー simile)
  • 擬人法(パー祖にフィケーション personification)
  • 共感覚法(シネスシージア synesthesia)
  • くびき法(ジェーグマ zeugma)
  • 換喩(メトニミー metonymy)
  • 提喩(シネクドキ synecdoche)
  • 誇張法(ハイパーバリー hyperbole)
  • 緩叙法(マイオーシス meiosis)
  • 曲言法(ライトティーズ litotes)
  • 同語反復法(トートロジー tautology)
  • 撞着法(対義結合、オクシモロン oxymoron)
  • 婉曲法(ユーフェミズム euphemism)
  • 逆言法(パラレプシス paralepsis)
  • 修辞的疑問法(レトリカル・クエスチョン rhetorical question)
  • 含意法(インプリケーション implication)
  • 反復法(リピティション repetition)
  • 挿入法(パレンシシス parenthesis)
  • 省略法(エリプシス ellipsis)
  • 黙説法(レティセンス reticence)
  • 倒置法(インヴァージョン inversion)
  • 対句法(アンティセシス antithesis)
  • 声喩(オノマトペ onomatopoeia)
  • 漸層法(クライマックス climax)
  • 逆説法(パラドクス paradox)
  • 諷喩(アレゴリー allegory)
  • 反語法(皮肉、アイロニー irony)
  • 引喩(アルージョン allusion)
  • パロディー(もじり parody)
  • 文体模写法(パスティーシュ pastiche)

の全30種。それぞれの項目で、それなりの例文が提示されるのは当然として、地の文でも解説しているレトリックが用いられるような遊びも盛り込まれていた。
 特によかったのは換喩の説明。「鍋が煮える」「手を貸す」「電話を取る」などが例(蕪村の句「春雨やものがたりゆく蓑と傘」も取りあげられた。蓑、傘は人である)で、容れ物で中身(煮えているのは鍋ではない)を示したり部分(手)で全体を示したり逆に全体(電話)で部分(受話器)を示したりするので何が何やらだったのだけど(この何が何やらは本書だけでなくこれまで読んだ類書すべてで何が何やらだった)、「まっさきに目がいったところをことばにしている」という説明で一気に換喩のイメージが掴めた気がした。

もっとも、項目最後で羅生門(青空文庫)に出てきた換喩の例は解釈が間違っているように思ったんだけど、「下人は、老婆をつき話すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の前へつきつけた」という文章の解説が、

 突きつけられたのは、刃(やいば)ではなく、「白い鋼の色」です。老婆の目に映ったもっとも目立った特質が「白い鋼の色」だったのです。これも換喩です。
となっているのだけど、老婆の目に映ったのが「白い鋼の色」なんだったら、ここは視点がブレていることになる。が、本文を見ても視点は一貫して下人に据えられている。換喩が使われているという指摘だけでやめておいたほうがよかったね、ここは。

それはともかく、さっきリストにしたレトリックを見て気づく人もいると思うのだけど、『日本語のレトリック』というタイトルなのに、これといって日本語独自のレトリックらしきものが本書には見当たらない。これはどうしてかというと、著者の考えが、「日本語のある一面に優越感を感じるのも、また、ある一面に劣等感を感じるのも、ともに間違った態度だと思います。これからは、日本語は、西洋の言語とも東洋の他の言語とも、本質的に対等な、人間のことばのひとつである、という認識をしっかりもつべきだと考えます」というものだからだろう。そのすぐあとでこうも言っている。

私がレトリックに心ひかれるのは、レトリックがまさにこのことを例証してくれるからです。(中略)こう断言していいでしょう。人間が手にする表現の手段としてのレトリック、これは基本的には人種や文化を超えて平等なのです。
このテーゼは巻末でも繰り返される。

いまなお誤解する人がいるようですが、人間の言語に単純な言語とか複雑な言語というものはありません。どの言語も、人間の言語であるかぎり同じように複雑で、同じように微妙です。レトリックにおいてもそうです。ですから、隠喩や直喩のような比喩をもたないことばなど、考えられません。また、A言語がB言語より「美しい」といえる公平な基準は示せないでしょう。
最近、これと似たような主張を見た気がしたぞと考えたところ、それは『英語の発想』(感想)であった。プロフィールを見ると、本書の著者も英語の学者。出版年は20年違うものの、何か似たような危機感を持たざるを得ないような状況があったのかもしれない。こっちの本に書いてある日本語ブームってのは大野晋『日本語練習帳』(amazon)のバカ売れから始まって斎藤孝『声に出して読みたい日本語』(amazon)あたりにいたる割と気持ち悪かったあれのことだろうから、釘刺す動機としては、安西の当時よりわかる(リアルタイムだっただけに)。でもって釘が刺せたのはたぶん著者の専門が日本語じゃなかったからなんだろうなとも思った。
 これで「日本語の奥深さがわかった」とか言われたら著者泣くだろうなと思いつつamazonのレヴューを見てみたところ、そこまでの抜け作はほとんどいなかったので、著者はホッとしてよさそう(というか、この手の本を読もうって人はその時点で最低限の読解ができるということなのかもしれない)。

 昔読んで面白かった『レトリック感覚』(amazon)、『レトリック認識』(amazon)あたりと比べると、引き込まれ度合いは低かったような気もするけれど、こういう話題が好きな人であれば、読んで損はしないと思った。おれが換喩のイメージをつかめたように、30あるレトリックのどれか一つであっても理解が進めば読んだ甲斐はあるだろうし。逆にこういう話題はじめてって人にとっては、一個一個のレトリックの説明がコンパクトなのでざっと見ていくのにも適していると思う。例文がちょっと古くなってる気もするので改訂版が出てくれたら、もっと強くプッシュするかも。


日本語のレトリック―文章表現の技法 (岩波ジュニア新書)