2022年9月28日水曜日

ハーマン・メルヴィル 千石英世 訳 『白鯨』

 
 読んだ読んだ!
 最初にこの作品に触れたのは高校入学直後の図書室で何やら立派な背表紙の世界文学全集(はて、どこの出版社のものだったか)に収まっているのをなんとなくめくったときに始まる。なぜほかの作品じゃなくこれを手に取ったのかはもはや定かではないが、コミカライズを見たのか、『ムーの白鯨』のイメージがきっかけだったか、せいぜいそんなところだろう。
 高校入学直後なんてまだグループ形成もされてないので昼休みが暇だった。なもんだから、暇を幸い読了できるだろうと思って数日図書室へ通い、イシュメイルがクイークェグと仲よくなったあたりまで読んだところで、教室内グループが固まってそれっきりになった。一度目の挫折である。
 で、次には新潮文庫か岩波文庫化に手を出した。まかりでたのはイシュメールだ、みたいな書き出しだった記憶があるが、このときもあえなく挫折した。
 読めない本というのは「もうこりごりです二度と触りません」と思うものと「うわあ、なんとかして読み終わりてえ」と思うものの二種類に分かれる。どんな要因かはよくわからない。『白鯨』はなぜか後者のカテゴリーだった。高校生のおれの死ぬまでに読みたい本リストに登録された。
 しかし、触れたバージョンの如何に問わず挫折していたのでよほど相性が悪いのも間違いない。受験勉強を経て英語がそこそこ読めるようになったあと、八重洲ブックセンターに初めて行って目移りしまくるなかで最初の一冊として本書の原書も買った(英語なら読めるのではないかと思ったあたり、調子に乗りすぎなお子ちゃまであった)が、もちろんそれまでのどのバージョンよりも早い段階で挫折した。
 読みたいが読めないが続いて数年、講談社文芸文庫から新訳の『白鯨』つまり本書が出た。速攻で買った。ほかのバージョンよりかは読みやすいと思い、おかしな予言者も登場し、ちゃんと船に乗り込み、ついにエイハブの登場シーンに到達。スターバックが出てきて、「おお、こいつがスターバックスの!」という感激も味わい、今度こそと意気込んだが中盤で挫折。二十世紀中の読破はならなかった。あちこち引っ越すたび、分厚い二冊組の文庫本は必ず一緒に連れて行ったが読めそうな気はせず、誰かが『白鯨』を引き合いに出して語るたび、「うわ、この人、あれ読んだのか」と尊敬と嫉妬の入り交じった気持ちになった。読み終えたなんて羨ましい。
 そんなわけで21世紀に入ってからは視界の端に入れつつも手は出ないという状況が延々と続いていたのだけど、今年の8月、やたらに本が読める時期がきた。自分的にはびっくりするレベル。理由は本棚を空けないともう買った本を入れる場所がないから大量の未読本を捨てるためにはとりあえず面白いかつまらないかわかる程度には読まないといけなくなったから。理由があれば漫然と読むときよりも挫折率が下がる。なんかなんでも読める気がする。いけいけどんどん気分で『フーコーの振り子』も読んだ。次は『白鯨』しかない! と、一世一代の読めるタイミングが到来したと考えて、久方ぶりに本書を開いた。思っていたより一章が長い。段落も長い。こんなもん、英語で読もうとしたら即白旗なのは当然だったなと思いながら、クイークェグが出てくるところまで読み進め、このくだりが面白かったのバディものっていうか、ボーイズラブっていうか、そういう要素がにおわされていたからじゃね? などと苦笑し、ヨナ記の再話を超え、二人の船主とチャリティーさんの紹介を超え、噂のエイハブ船長の登場から、戯曲風の変則場面を進みつつ、ピークォド号は海を行き始めた。
 途端に船ではなく、おれが難破しそうになった。本筋となんの関係もない、せっかく調べたら書かないともったいないよね、みたいなデータを紹介したいだけじゃないのかこれって章が続くこと続くこと。段落が少ないから息継ぎのタイミングもなくてここを突破するのは骨が折れた。脱線ならロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』のほうが激しかったし、一段落の長さで言えば『失われた時を求めて』を基準にすりゃ屁でもないと自分を励ましたけれど、しんどいものはしんどいのである。主筋なんて出航した後は「たまに鯨獲ったり、ほかの船と会ったりします」くらいのものなんだよ、下巻の600ページ近くまで。
 けれども地道にちょっとずつ進んでいくうち、ついに白鯨が姿を現し、絶望的なバトルが始まる……が、今読むと、エイハブが足を失った恨みで白鯨を追っているのはわかるけれども、白鯨を大悪魔みたいに読むのは無理があるよなあ、だって白鯨のほうはただ降りかかる火の粉を払ってるだけだもんなあ、などと思ってしまい(鯨をめぐる状況も変わっているし)、いまいち血湧き肉躍る感はなかった。読み終えたときも正直に言えば、感動とかどこにもなく、むしろ開放感(これでもう「読みたいけど読めない」みたいに思わなくていいぞ!)のほうが断然強かった。なにせほら、読み出してから読み終えるまでに30年かかってるから……。面白かったのかつまらなかったのかはこれから固まってきそう。本書の解説によれば、このバージョンで『白鯨』は十度日本語訳されたことになるそうである。たぶんそのあと、岩波文庫から新訳が出ていたと思うので最低11バージョンの日本語版が存在するわけだ。すごいことだよね。
 で、本書の特徴はおそらくだけど、スタッブっていうキャラクターの台詞がいきいきしているところ。決して主役ではないはずなんだけど、やたらに印象が強く、訳者のお気に入りはこいつかなと思ったり。逆にエイハブは長台詞が多い割にパンチがいまいちだったような気がした。これは訳者のせいかメルヴィルの原文のせいかはよくわからない。カリスマ性を描くっていうのはなかなか難しいからねえ。ましてや書かれた時代と読んだ時代に200年近い隔たりがあるとなれば。
 もちろん、そんなことあげつらうよりも、この大著を日本語に移した訳者(すべてのバージョンの訳者)の努力に敬意を払う気持ちのほうが十倍大きい。とても真似できねえなと10ページに一回くらい思いながら読んでいた。
 それと、まだ新刊で手に入る状態を維持している講談社文芸文庫の判断もすごい(出たの2000年だからね)。
 あまりの長期間プロジェクトが終わった気分なのでさっぱりまとまりが作れないからこの辺でやめておくか。