2019年4月16日火曜日

白井聡 『国体論 菊と星条旗』



天皇とアメリカ
誰も書かなかった日本の深層!
明治維新から現在に至るまで、日本社会の基軸となってきたものは「国体」である--。
象徴天皇制の現代社会で「国体」? それは死語ではないのか? 否、「国体」は戦後もこの国を強く規定している。一九四五年八月、大日本帝国は「国体護持」を唯一の条件として敗戦を受け容れた。ただし、その内実は激変した。「戦後の国体」とは、天皇制というピラミッドの頂点に、アメリカを鎮座させたものなのだ。
なぜ、かくも奇妙な「国体」が生まれたのか。「戦後の国体」は、われわれをどこに導くのか。『永続敗戦論』の白井聡による、衝撃作!
ツイッターで話題だった本。第一印象は「すげえタイトルだな、おい」。アマゾンに掲載されている永江朗の書評が本書の内容をコンパクトにまとめているので、引用してみる。

国体。もちろん国民体育大会のことではない。国家体制、あるいは、天皇を頂点とした国家という理念である。そんなものは敗戦とともに消滅したのでは?なんて思ったら大間違い。いまもしっかり生きていて、日本人を縛っているのだと白井はいう。
かつて頂点にいたのは天皇だったが、戦後はそのポジションにアメリカが就いた、と白井はいう。明治維新から敗戦までの天皇と国民の関係。敗戦から現在までのアメリカと日本の関係。両者がそっくりであることを、歴史を追って論証していく過程がスリリングだ。
正直に言えば、新しくもない話にも思える。小泉純一郎が世界のどこよりも早くアフガンへの報復を支持すると言ったとき、いや、もっとまえの第一次湾岸戦争でどちゃどちゃ戦費をアメリカに献上しながら「普通の国みたいに軍隊派遣できなくて恥ずかしい」とか言ってた頃には、日本で一番偉いのはアメリカなんでしょという体感は存在していたと思うのだ。著者がその体感に言葉を与えたいと思うのにはきっかけがあった。それが2016年8月8日のお言葉だ。って言ってこんなんあと二年も経ちゃ日付からなんのことかわかるなんて人ほとんどいなそうなんで、後世のために解説するとこの日、天皇が「退位させてくれ(大意)」とテレビ放送で訴えたのである。それを見た著者は「今上天皇の今回の決断に対する人間としての共感と敬意」を覚えた。

その共感とは、政治を超えた、あるいは政治以前の次元のものであり、天皇の「私は象徴天皇とはかくあるべきものと考え、実践してきました。皆さんにもよく考えて欲しいと思います」という呼び掛けに対して応答することを筆者に促すものである。応答せねばならないと感じたのは、先にも述べた通り、「お言葉」を読み上げたあの常のごとく穏やかな姿には、同時に烈しさが滲み出ていたからである。
それは闘う人間の烈しさだ。「この人は、何かと闘っており、その闘いには義がある」――そう確信した時、不条理と闘うすべての人に対して筆者が懐く敬意から、黙って通り過ぎることはできないと感じた。ならば、筆者がそこに立ち止まってできることは、その「何か」を能う限り明確に提示することであった。
そして、著者は「お言葉」を次のように解釈する。

敗戦国で「権威ある傀儡」の地位にとどまらざるを得なかった父(昭和天皇)の代に始まった象徴天皇制を、烈しい祈りによって際賦活した今上天皇は、時勢に適合しなくなったその根本構造を乗り越えるために何が必要なのかを国民に考えるよう呼び掛けた。
もしこれに誰も応えることができないのであれば、天皇制は終わるだろう。現に国民が統合されておらず、統合の回復を誰も欲してさえいないのならば、「統合の象徴」もあり得ないからである。あるいは、アメリカが天皇の役をやってくれて、それでいいのであれば、日本の天皇など必要ないからである。
われわれがそのような岐路に立っていることを、「お言葉」は告げた。

かくして、本書は、その「岐路」の本質を見極めるために書かれた。著者の現状認識は以下のようなものだ。

「戦前の国体」が自滅の道行きを突っ走ったのと同じように、「戦後の国体」も破滅の途(みち)を歩んでいる。「失われた二〇年」あるいは「三〇年」という逼塞状態は、戦後民主主義と呼ばれてきたレジームの隠された実態が「国体」であったがためにもたらされたものにほかならない。
その果ての破滅が具体的にどのようなかたちで生ずるかは、不確定要素が多いため、誰にも確言はできないだろう。だが、そうした予言の類は、現状認識を鍛え上げるうえでさして重要ではない。真珠湾攻撃当時の日本が戦場では勝利していたにもかかわらず本質的には破滅していたのと全く同じ意味で、われわれの社会はすでに破滅しているのであり、それは「戦後の国体」によって規定されたわれわれの社会の内在的限界の表れである。
そして、その視角から明治から敗戦までと戦後の二つの「国体の歴史」(形成・発展・崩壊)の叙述を試みていく。その筆致、解釈はときに危うい感じを覚えさせつつも、評判通りにスリリングだった。

ただし、本書の読みどころは、少なくとも最大の読みどころは、その手際ではない。いや、それもなかなかのものだと思うんだけど、一読者として一番印象に残ったのは、熱さ、つまりは現状に対する怒りである。たとえば次のような箇所にも怒りがしっかり乗っている。なぜこれほど異様な対米従属をしているのかという問いへのあれこれの言い分(「東西対立における日本防衛」「自由世界の防衛」「『世界の警察』による『正義』の警察行為のため」「中国の脅威」「暴走北朝鮮の脅威」)を並べたあと、このように理由が二転三転するのは、すべて真の理由でないことを物語っているとして次のような結論を読者に叩きつける。

対米従属の現状を合理化しようとするこれらの言説は、ただひとつの真実の結論に決して達しないための駄弁である。そしてそのただひとつの結論とは、実に単純なことであり、日本は独立国ではなく、そうありという意志すら持っておらず、かつそのような現状を否認している、という事実である。
感情が乗っているだけに、読む方もドキッとする。

もちろん、現政権やその支持者に対しても容赦はない。今の中年知識人なんてお上に怒ったら負けみたいな価値観刷り込まれて、せいぜいが「やれやれ」って溜め息つく程度のことしかできない腰抜けばっかりというだっらしねえ状況+総理礼賛本書きゃ犯罪ももみ消されるし、逆に総理馬鹿にしたと見なされりゃ国会に呼ばれるっていう80年代だったら漫画か何かの話みたいな状況のなか、安倍を暗愚と断じ、その支持者を奴隷と言い切り、アメリカが戦後日本人に与えた政治的イデオロギーの核心は、自由主義でも民主主義でもなく「他のアジア人を差別する権利」にほかならなかったと書くのは、さぞ勇気が要ったことと思うが、それだけ著者の怒りは深いのだ(あと、たぶんだけど、担当編集者も同じ気持ちだったんじゃないかと思う。じゃないとこれ手直ししてくれって話になったと思うんだよね)。自分はこの著者の怒りに大いに共感した。『歪む社会』(感想)でリベラルも3000円の研究書じゃなくて800円の新書をバンバン出すべきみたいなことが言われていたと記憶するけれども、ジャンルは少し違うものの、本書は格好のモデルを提供すると思う。

それとは別に、本書を読んでいて、数年来の疑問が解けた箇所があった。何年かまえ、日本は教育に金をかけないという話題があったときに、あれにもこれにも金をかけないという話を聞くのだけど、どこに金注ぐかっていうのはどんな国かを表す指標だよなと、経済が専門の友人に国際比較したときにGDPの割合が突出して高くなる分野はなんなのかと尋ねたことがあった。そうしたら返ってきた答えは「わからない」だった。なんだそりゃと思ったんだが、専門家がわからないというのだから、素人にわかるはずもないとそれ以上調べなかったんだけどさ、この本読んでたら、日本のアイデンティティーってやつに関する元防衛官僚のコメントが出てきていた。

私が政府にいて推進していたのは何だと言ったら、アメリカにとってより良い同盟国であるというアイデンティティーでした。だから特に冷戦が終わってから、日本のアイデンティティーは何だと問われて、アメリカの同盟国であるという以外になかなか出てこない。結局、アメリカがやろうとすることをいかにお手伝いできるか、たくさん手伝えるほうがいい同盟国であるというものでしかありませんでした。
これだけかと虚しくなったのだが、疑問は解けた。

あー、あとね、政治スタンス右派自任してるような人でもこれは読めると思うんだよね。いや、むしろ読まなきゃ駄目だと思うよ。それが天皇戴く国体ってのを根幹にしてる右派でネトウヨじゃないんだったら。だってさ、上記引用箇所でもわかると思うんだけど、これは天皇の「お言葉」に応えて書かれた本で、このままじゃあんたらが守ってると思ってる天皇制滅ぶけどいいのか? って言ってる本でもあるわけよ。著者は最後のほうでこう書いてるんだわ。「お言葉」の意味についてね。

この事態が逆説的に見えるのは、起きた出来事は「天皇による天皇制批判」であるから。「象徴」による国民統合作用が繰り返し言及されたことによって、われわれは自問せざるを得なくなったのである。すなわち、アメリカを事実上の天皇と仰ぐ国体において、日本人は霊的一体性を本当に保つことができるのか、という問いをである。もり仮に、日本人の答えが「それでいいのだ」というものであるのなら、それは天皇の祈りは無用であるとの宣告にほかならない。われわれがそう答えるならば、天皇(および想定される地位継承者たち)はその地位と職務を全うする義務を自らに課し続けるであろうか。それは甚だ疑問である。
冷笑して「反日左翼」馬鹿にしてる場合じゃないんだって著者は言ってるんだよ。この「お言葉」が歴史の転換を画するものになるかどうかを決めるのは民衆の力だけだってさ。「民主主義とは、その力の発動に与えられた名前である」ってさ。ここまでアジられてなんの反応もできないなら、そんな右派は右派じゃなくてただの「奴隷」だろ。

俺が買った本は七万部って書いてあったけど、アマゾンの書影は八万部になっていた。さっさと版を重ねて十万超えを達成してもらいたい。そうすれば、こういう本がもっと出るわけで。世の中を変えるのには色々な経路があるのかもしれないが、正しい怒りってのは割と本線に近い道だと思う。読んでつくづくと、売れるには売れるだけの理由があるんだなと思った。面白いよこれ。


国体論 菊と星条旗 (集英社新書)

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