2023年10月27日金曜日

国枝史郎 『大鵬のゆくえ』

 先日、『通夜の人々・見得ぬ顔(amazon)』というタイトルの本をKDPした。『国枝史郎探偵小説全集全一巻(amazon)』に収録されている探偵小説論であったり感想であったりのなかで言及された小酒井不木の短編をまとめ、国枝の言及部分と一緒に読めるようにしたものである。末國善己の選択の妙なのかもしれないが、国枝の小酒井不木愛があまりに微笑ましく、これは言及されている作品とパッケージしてやらねばなるまい、みたいな気分になって勢いで作った。で、そのときに小酒井に「国枝史郎氏の人物と作品(青空文庫)」というエッセイを知った。

 そこにこうある。

「大鵬のゆくえ」を読むに至って、すっかり魅せられてしまい、国枝崇拝者の一人となった。その後、氏の作品は、手の及ぶ限り眼をとおさずには置けないことになったのである。
 そんなに面白かったのならこれも読まねばなるまいということでamazonの無料本で読んでみた。リンクは青空文庫に貼っておく。

大鵬のゆくえ(青空文庫

 物語は平安時代に始まる。藤原信輔のもとへ本邦第一の物持ち長者と称される馬飼吉備彦が訪ねてきて、六歌仙の絵を描いてほしいと頼み、信輔引き受ける。出来上がった絵は吉備彦の子ども六人に分けられる。

「ここに六歌仙の絵巻がある。お前達六人にこれをくれる。大事にかけて持っているがいい。……俺は今無財産だ? 俺は家財を棄ててしまった。いやある所へ隠したのだ。俺からお前達へ譲るものといえばこの絵巻一巻だけだ。大事にかけて持っているがいい。……ところで俺は旅へ出るから家を出た日を命日と思って時々線香でもあげてくれ」
 これが吉備彦の遺訓であった。
 吉備彦は翌日家を出た。
 鈴鹿峠までやって来ると山賊どもに襲われた。山賊に斬られて呼吸いきを引き取る時こういったということである。
道標みちしるべ、畑の中。お日様は西だ。影がうつる? 影がうつる? 影がうつる?」
 まことに変な言葉ではある。
 山賊の頭は世に轟いた明神太郎という豪の者であったが、ひどくこの言葉を面白がって、時々真似をして喜んだそうだ。で、手下どももいつの間にかおかしらの口真似をするようになり、それがだんだん拡がって日本全国の盗賊達までその口真似をするようになった。
道標みちしるべ。畑の中。お日様は西だ。影がうつる? 影がうつる? 影がうつる?」
 この暗示的な謎のような言葉は爾来代々の盗賊によっていい伝えられ語り継がれて来て、源平時代、北条時代、足利時代、戦国時代、豊臣時代を経過してとうとう徳川も幕末に近い文政時代まで伝わって来た。
 そうして文政の某年に至って一つの事件を産むことになった

 といったところから本編らしきものが始まるのだけども、この出だしの部分がなんとも投げやりで楽しかった。こんなふうな描写がある。

「馬飼吉備彦と申しますれば本邦第一の物持ち長者と、かよう聞き及んでおりましたが……」
「その長者の吉備彦じゃわい」
「それに致してはその風態みなりがあまりに粗末にござります」
「ほほう、どのような風態かな?」
「木綿のゴツゴツの布子を着……」
「恐らくそれは結城紬ゆうきつむぎであろう」
 まさか藤原氏の全盛時代には結城紬などはなかった筈。
 それはとにかく吉備彦は館の奥へ通された。それお菓子、それお茶よ。それも掻い撫での茶菓ではない。鶴屋八幡の煎餅に藤村の羊羹というのだからプロの口などへははいりそうもない。
 ややあって信輔があらわれた。
「よう見えられたの吉備彦殿」
「これはこれはご前様。ご多忙中にもかかわらず、お目通りお許しくだされまして、有難い仕合わせに存じます」
 ――とにかくこういう意味のことを吉備彦はいったに相違ない。昔の会話はむずかしい。それを今に写そうとしても滅多に出来るものではない。武士は武士、公卿は公卿、ちゃアんと差別けじめがあった筈だ。それをいちいち使い分けて原稿紙の上へ現わそうとするには、一年や二年の研究では出来ぬ。よしまたそれが出来るにしても、そうそう永く研究していたでは飯の食い上げになろうというもの。

 そりゃそうだが、それを言うのかと笑った。こっから時代は文政に飛び、六歌仙の絵の一つを家宝として受け継いできた男、藪紋太郎が絵を盗まれたり貧乏神が現れたりしつつ、やがてタイトルになっている大鵬が現れる。

鷹狩りの一行は林の前を林に添って行き過ぎようとした。
 と、忽然西の空から、グーン、グーンという物の音が虚空を渡って聞こえて来た。
 家斉公は足を止めた。で、お供も立ち止まる。
「何んであろうな、あの音は?」
 こういいながら笠を傾け、日没余光燦然と輝く西の空を眺めやった。
「不思議の音にござります」
 こう合槌を打ったのは寵臣水野美濃守であった。さて不思議とは云ったものの何んの音とも解らない。しかしその音は次第次第にこの一行へ近づいて来た。やはり音は空から来る。
「おお、鳥じゃ! 大鳥じゃ!」
 家斉公は手を上げて空の一方を指差した。
 キラキラ輝く夕陽をまとい、そのまとった夕陽のためにかえって姿は眩まされてはいるが、確かに一羽の巨大な鳥が空の一点に漂っている。
 何んとその鳥の大きいことよ! それは荘子の物語にある垂天すいてん大鵬たいほうと云ったところで大して誇張ではなさそうである。大鷲に比べて二十倍はあろうか。とにかくかつて見たことのない奇怪な巨大な鳥であった。
 グーン、グーン、グーン、グーン、かつて一度も聞いたことのない形容を絶した気味の悪い声! そういう啼き声を立てながら悠然と舞っているのであった。
 これに藪紋太郎が吹き矢で傷手を負わせ、話は後半へ。医者の誘拐やら謎の人物の治療やら百鬼夜行やらありつつ、真相開示へ向かう。

 語られた真相は見方によってはガイ・リッチーの『シャーロック・ホームズ』みたいと無理くり褒められないこともないのだけれど、正直なところいささか竜頭蛇尾で拍子抜けした。六歌仙のプロットラインも上手に着地したとは言いがたい。読後感としては「なあんだ」で終わってしまったが、それでいて小酒井不木が「すっかり魅せられてしまい、国枝崇拝者の一人となった」理由もなんとなくわかった。語り口の軽妙さが癖になるのである。読んでいてぐいぐい引っ張られていくというのもちょっと違ってすいすい進んでいく感じ。小酒井が上のエッセイで述べる国枝の長所は文章のリズム・力と空想の豊富さであって構成でもオチの意外性でもなかった。最後どうなるんだろうという読み方でなく、場面場面を楽しもうと思うなら満足度は高くなるのも頷ける。

 ついでに小酒井のエッセイで最後に楽しみとされている『木曾風俗聞書薬草採』も読んで見ようかと思ったのだが、改題された『任侠二刀流(青空文庫)』もアマゾンの無料本には見当たらず、ちょっと残念だった。


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