2019年6月30日日曜日

泡坂妻夫 『妖女のねむり』



名匠が幻想味あふれる物語に仕掛けた本格ミステリの罠。
廃品回収のアルバイト中に見つけた樋口一葉の手になる一枚の反故紙。小説らしき断簡の前後を求めて上諏訪へ向かった真一は、妖しの美女麻芸に出会う。目が合った瞬間、どこかでお会いしましたねと口にした真一が奇妙な既視感に戸惑っていると、麻芸は世にも不思議なことを言う。わたしたちは結ばれることなく死んでいった恋人たちの生まれかわりよ。今度こそ幸せになりましょう。西原牧湖だった過去のわたしは、平吹貢一郎だったあなたを殺してしまったの……。前世をたどる真一と麻芸が解き明かしていく秘められた事実とは。/解説=松浦正人
というようなお話。サンプル読んだら面白そうだったのでそのまま読み進めたのだけど、なんとなく名前は聞いたことがあったせいもあり、あらすじも先に読んでいなかったものだから、話が樋口一葉から離れて生まれ変わりモチーフになったところでまず「ほへ?」となった。この時点で一瞬放り投げてしまおうかとも考えたのだけど、『亜愛一郎の狼狽』(amazon)から始まるシリーズで構成の繊細さはわかっている泡坂妻夫なだけに、どんな世界設定であろうと最後までいけば感心できるだろうと思い直して読み進んだ。案の定よくできていた。ここで言うよくできていたというのは、実に細かいところまで謎と解答が張りめぐらされていたことと、作品内論理がしっかり構築されていたことを指している。ただし、そう思うためには、ひとつ大きな壁を乗り越えなくてはいけなくて、それは主人公の真一がなんだってころっと転生を信じちゃうのかという大謎。そこだけ納得がいかなくて、実際問題信じてくれなきゃ物語の論理が起動できないからなので、目くじらを立てないのが正しい部分ではあるけれども、この弱さがあるためある程度読者を選ぶかもしれないなどとも思った。上記シリーズもそうだけど、設定の世界に入れるか(もっと言えばそこをとりあえず呑めるか)は、泡坂読むときには割と難所になるように思う。最低そこを見逃してやれば、楽しく読めるし、隅々まで行き届いた目配りに感心もできるんだけどね。おお、そうくるの! みたいな場面はもちろんあったし、なんと! そんなことが! な場面もあれこれあり、あるキャラクターについてはもうちょっと書いてみたい気もするのだけど、ミステリーはネタバレとの兼ね合いが難しいのでやめておく(感心するところ=なんらかの謎が解けるところだからねえ)。
 なお、一葉やら明治文学やらについてのマニアックな背景知識とかはいっさい必要なく読めるので、冒頭読んでリズムが合うとか、面白そうと思ったらそのまま最後までいけるはずである。伏線の回収も見事なのでそういうの好きな人向き。


妖女のねむり (創元推理文庫)

2019年6月7日金曜日

Agatha Christie " A Pocket Full of Rye"



 ミス・マープルシリーズの長編第五弾。
 読んだのはこのバージョン。


日本語訳はこれ。


 あらすじも日本語版から引用してみよう。

投資信託会社社長の毒殺事件を皮切りにフォテスキュー家で起こった三つの殺人事件。その中に、ミス・マープルが仕込んだ若いメイドが、洗濯バサミで鼻を挟まれた絞殺死体で発見された事件があった。義憤に駆られたマープルが、犯人に鉄槌を下す! マザー・グースに材を取った中期の傑作。
上記のボックス・セットで最初から読んでいって、たまたま順番がこれだったというのもあるが、『アガサ・クリスティ完全攻略』(感想)でマープル長編最高昨評価(正確にはトップタイ)が出ていたので読んでみるかと。ドラマ版の記憶もほとんど消えていて、犯人が誰かということくらいしか覚えていなかった。
 で『完全攻略』で
 まず何より、
 ミス・マープルがカッコいい。
 ということを強調しておきたい。彼女の登場シーンに私は鳥肌を立てた。カッコいいのだ。
と紹介されていたので、ミス・マープルが登場するのを楽しみに読み進めたのだけども、なかなか出てこなかった。なんと13章までお預けであった。そこまでには上記の事件が起きたり、家族内の勢力図やら人間関係やら会社のそれやらをニールって刑事が一生懸命追いかける。で、黒ツグミのマザーグースって鍵を遠路はるばるやってきたミス・マープルが持ち込み、ここで探偵交代かと思いきや、さらにニールの捜査がメイン。考えてみれば『火曜クラブ』(amazon)とかでは安楽椅子探偵だったよマープル。で、なぜかニール刑事の文字列を見るたびに、『ストリート・キッズ』(amazon)ニール・ケアリーを思い浮かべてしまって、ウィンズロウを読み返したくなった(なんでだろう。そして、今amazon確認したら表紙が昔と違っててショックだった)。
  あらすじ紹介にも『完全攻略』にも言及はなかった気がするが、『ライ麦……』でいちばん気に入ったキャラクターは最初の被害者の前妻の姉だか妹だかであるミス・ラムズボトム。この人と遠地から戻ってきた被害者の次男ランスとが会話する12章の1が個人的にはお気に入りの場面になった。不吉な雰囲気をうまく醸し出してると思う。こういうのあると中だるみを避けられるよね。まあ、どのみち次の章でミス・マープル出てきて、見立て殺人のモチーフが導入されてギアが変わるんだけどさ。
 あとは25章の最後の一文なんかもクリスティーっぽいというか、『魔術の殺人』のある場面を思い出したので、マープルものっぽいというか、上手に次の章を読ませるよなあ。こんなん言われたらやめるわけにはいかないとページをめくった(ドラマ版を見ていて、犯人だけ覚えていたというのに)。
 正直に言うと、10章までの展開はいささかかったるいし出てくる人も多いので人によっては苦痛かもしれないが、そこを過ぎれば安定した面白さが始まる。でもって後半の安定した面白さを支えるのが冒頭10章分で提示されたデータだったりするので、あくびしながらでもとにかく11章へたどり着くのが大切。最後には評判のいいラストシーンが待っている。未読の人は読んで損なしですよ~。

2019年6月5日水曜日

宮内悠介 『偶然の聖地』





小説という、旅に出る。
国、ジェンダー、SNS――ボーダーなき時代に、鬼才・宮内悠介が届ける世界地図。本文に300を超える「註」がついた、最新長編小説。
秋のあとに訪れる短い春、旅春。それは、時空がかかる病である――。人間ではなく世界の不具合を治す“世界医”。密室で発見されたミイラ化遺体。カトマンズの日本食店のカツ丼の味。宇宙エレベーターを奏でる巨人。世界一つまらない街はどこか・・・・・・。オーディオ・コメンタリーのように親密な325個の注釈にガイドされながら楽しく巡る、宮内版“すばらしい世界旅行”。“偶然の旅行者”たちはイシュクト山を目指す。合い言葉は、「迷ったら右」!――大森望(書評家)
この小説を体感していると、混沌と秩序って、向こう岸にあるのではなく、隣にあるのではないかと思えてくる。生きる上で生じたバグに体を浸し、誰かと誰かのハブになる。バグとハブもまた、隣にあるのではないか。1ページごとに困惑がやってくる。困惑がやがて快楽に変わる。困惑と快楽、これもまた隣にある。一体どういうことだろう。――武田砂鉄(ライター)
直木賞候補3回、芥川賞候補2回の著者による現時点での最新作。
「百とも千とも言われる登山者たちを遭難死させてきた」「神の検索すら斥ける」「上空を飛ぶ衛星すら落とす」「登攀中の登山者に意識変容を起こす」などなどの物騒な形容がつく山イシュクト。語り手の怜威(レイ)の祖父朗朝(あきら)はそのイシュクトに入ったのを最後に消息を絶ち、えっらい時間が経ってから、そこで子をなしたという情報が飛び込んできて、レイはその話が本当かどうかを確かめるべくイシュクトを目指す……のだが、なかなか旅は始まらず、以前イシュクトに入ったというティトの思い出話、時空がかかる病旅春と世界医の紹介などが語られるうち70ページ近く進み、やっと旅が始まったと思えば、なんとレイが出発したあとの部屋からミイラ化した死体が出現して警察が出張ってきたりでなかなか前に進まない(が、死体を発見したレイの父親の行動は「ああ、なるほど、たしかに」と思うような軽快な新しさとでも言うものがあって、この脱線も楽しかった)。で、筋がなかなか進まないうえに、本書には300を超える註がついていて、それもまた前進を阻む。註と言っても普通の本の註とはちょっと違う。たとえばp.8「ドラゴンと呼ばれる零下一七〇度の寒気団」に付された註(本書最初の註でもある)はこんな感じ。

【ドラゴンと呼ばれる零下一七〇度の寒気団】 この素晴らしく心惹かれる現象は、しかしながら、知る限り登山漫画の『K』(谷口ジロー画・遠崎史朗作)にしか見ることができない。ぼくはこの存在をかたくなに信じているので、本作註にドラゴンは実在する。
もう一個、例示。ブリジット・バルドーに線が引かれてて註はこんな感じ。

【ブリジット・バルドー】女優。魔夜峰央『パタリロ!』に「B・Bは?」「ブリジット・バルドー」「M・Mは?」「マリリン・モンロー」「魔夜峰央です」というネタがあった。
雰囲気を掴んでもらえただろうか。前者はリアリティーを補完しないための註だし、後者はブリジット・バルドーの情報をほとんど増やさない。ほかにも死体登場で現場にやってきた刑事のルディガーが前後左右に手を動かして空にマインドマップを描いている描写の註に至っては、

【前後左右に図形を描いている】浦沢直樹『MONSTER』に出てくるあの名前を忘れた刑事さんの癖から。あれは確かコンピュータのタイピングであったか。
である。註のせいで自分もあの刑事の名前を忘れていることに気づいて悶々とし「助けてグリマーさん」とか思って、しばし『MONSTER』世界を彷徨うことになった(なお刑事の名前はルンゲである)。と、こんな感じに本書の註のほとんどは脱線への誘いと呼んでも間違ってはいないテイストを持っている。ストーリーテリングも註もが脱線しろー脱線しろーと言っているのだから、先へ先へと行くような読み方もできようはずがなく、文中に「モロッコ」と出てくれば『カサブランカ』の冒頭なんかを思い出して、脳内で「君の瞳に乾杯」の場面を再生したり、「定量的に」「定量的にだ」という会話を見ては村上春樹の小説に思いを馳せたり、注釈入れるために本文上下が詰まったレイアウトになっていて、「なんか書け」って言われているような気がしてきて、つい書き込みとかしちゃったり(これは註172で「旅人ノート」なるアイテムが紹介されているところから、「この本を旅人ノート化しろって指示が出ている」と思い込んだせいもある)と、小説読んでるんだか、これをきっかけに記憶の棚卸しをしているんだかわからないような珍しい読書体験(当然進まないので長旅になる)ができた。註を使った小説と言えば、思いつくのは『青白い炎』(amazon)なんだけど、あれは註から物語を浮かびあがらせるのを狙っているのに対して、本書の註はDVD(ブルーレイでもいい)ソフトのコメンタリー機能みたいなものになっていて、そのせいで『Sherlock』の第三話(だったと思う)で、結構緊迫した場面に流れたコメント「なんで携帯つながるの?」とかも思い出した。いや、そんな感じの註がたくさんあってだね。紙はもちろん、電書も固定レイアウトなので、この註の「オン/オフ」が選べないところが残念と言えば残念かもしれない。とはいえ、これくらい裏側を見せてくれると、取っつきやすさはあがるとも思った。難しげな単語に「書いてみたかっただけ」とか註が入っていれば、気にせず進めるし。

ほかの読者が読みながら余白に書き込み入れまくって出来上がったその人だけの『偶然の聖地』とか読んでみたい。註の話に終始したのは脱線への誘いが多々盛り込まれていながら、しっかりエンタメの構造があって、おおってところもあって、そこをネタバレさせたくなかったからで(とりあえず世界をデバッグする話だった、くらいのことは言ってもいいだろうか。)、ストーリーがどう進んでいくのかは自分で読んで確かめてもらいたい。結構な傑作だと思うが、たとえばこれが候補作になるなら、芥川賞と直木賞のどっち? などと考えると結構悩む。そういうあんまり類書のない=新しいもの好きのほうがより楽しめるだろうなあ。


偶然の聖地

追記:書き忘れてたんだけど、この本で一番遊んでる箇所は「25. ラーワルピンディ特別区」だと思う。この章の註は、まったく線部の説明を果たしてなく、かつ辞書の語釈っぽいもので統一されている。しれっと註がバグっているのである。ここまでやるかと笑ったのだった。