2019年5月14日火曜日

清沢洌 『暗黒日記 1942-1945』




太平洋戦争下,豊かな国際感覚と幅広い交友をもとに,当時の政治・経済状況や身辺の生活をいきいきと記した希有な記録(原題「戦争日記」).外交評論家・清沢洌(一八九〇―一九四五)は,将来日本現代史を書くための備忘録として,この日記を書きつづけたが,その鋭い時局批判はリベラリズムの一つの頂点を示している.人名・事項索引を付す.
名前だけは以前から知っていた本で、ずっと戦中の日記なんて読んでも実感としてはわからんだろうとスルーしていた(『きけ わだつみのこえ』(amazon)を若いときに覗いて得た実感に基づく)のだけど、政治がとち狂い続けている現状なら、逆に面白く読めるのではないかと思って手に取った。直接的には『流言・投書の太平洋戦争』(感想)に出てきた引用を読んだのがきっかけだったような気がする。戦争が終わったら書こうと思っていた著作の準備として記された日記で、戦争が終わるより早く著者が亡くなってしまったために尻切れトンボな感じはぬぐえなかった(最後のエントリー(?)は結婚式に出てスピーチしたって話で終わってるし)。

 読んだ結果として主な感想はふたつ。ひとつは「やべえ、ほんとに現在と当時の差がそれほど大きくない」。太鼓持ちのジャーナリスト(名前が何度もあがっているのは徳富蘇峰)や、馬鹿な政治家が精神論だけ唱えていて、無知な大衆がそれを鵜呑みにして、そういうのを量産してる原因は教育にあって、そこから変えなければいけない、みたいな話はそのまま今日の社会批評でもお目にかかるような気がする。そういう意味では大日本帝国がぶっ潰れて一面焼け野原になったのは、あくまでも環境がリセットされただけだったんだなというふうに思った。白井聡が『永続敗戦論』(感想)で、「自主的決意による革新・革命の絶対的否定を意味するもの」「絶対的に変化を拒むもの」とまとめた国体はしっかり残ってるわ、やっぱり。

 もうひとつは「リベラリズムの一つの頂点ってこんなもんか」。リベラリズム偏差値的には結構高かったんだろうと思うし、世の中のあれこれが今よりさらにおかしかった時期に、よく素面でいられたなという気もするのだけど、国体護持って目標は著者も共有してるんだよね。教育の不備を嘆いているのに、それが国体に都合のいい教育カリキュラムだという点は無視している節がある。戦争の結果、天皇の責任が問われないことを願っていたり、明治天皇や伊藤博文持ちあげていたりってところも、まあ、当時の知識人だからなあと思いつつ、「リベリズムの頂点低くね?」と、首をちょっと傾げながら読んだ。もちろんこれは人間が真空状態で思考できない=どんなに頑張っても環境の影響を受けるってことなんだろうとは思う。あんまりにも悲惨な知的社会的荒廃のなかで暮らしているのだから、原点がこちらの求める地点とは違っているのだ(し、だからこそ、今読んで参考になるところもあるわけだ)。

 岩波文庫が本書を出したのは好景気に沸き、ベルリンの壁も崩れちゃった直後の1990年。当時は往事を懐かしむ資料にしかならなかったんじゃないかという気もする。むしろ今こそ読まれるべき本(今がどの程度おかしいのかの指標をくれるから)だと思うんだけども、岩波文庫もちくま学芸文庫も品切れで、新刊で入手できるのは評論社のクソ高いバージョン(amazon)だけなのが、なかなかままならない感じがする。今復刊したら売れると思うんだけどな。アメリカじゃトランプ政権発足で『1984年』(amazon)が売れるようになったみたいな話あったじゃん。あれと似た需要が寝てる気がしてならない。本書とついでに本書で何度も取り上げられて褒められていた正木ひろしの『近きより』をまとめて出してくれないかなあ、岩波でも筑摩でもいいんだけどさ。


暗黒日記―1942‐1945 (岩波文庫)

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