2019年3月20日水曜日

安西徹雄 『英語の発想』


 どういう経路だったかはもはや思い出せないのだけど、アマゾンのレビューを見て読んでみようかなと思った。だいぶ昔に同じ著者の『英文翻訳術』(amazon)は読んでいて、それで江川泰一郎の『英文法解説』(amazon)にも手を出したんだったのを思い出したり(で、今リンク貼ろうとして価格の安さに驚いた。あの本、本体価格1700円だったの? コスパやばかったな)

 そんな前史もあって、レビュー見てもだいたい言ってそうなことは予想できるなあと思ったんだけど、まあ復習みたいな気分で読んだ。とてつもなく下手に訳された「直訳」文を叩き台にして「意訳」文作っていくやり方とか、懐かしいっていうか、昔読んだときより、「直訳」のわざとらしさがキツくて笑ったというか。別宮貞徳とか柳瀬尚紀とかと違って市販品に牙を剥かずに主張を展開しようとしたんだなって感じられた。それにしてもこの「直訳」は冗談だろう。「直訳」に関しては全編冗談に見えたから例は引かないけど、構文完璧に取れた上で選択する訳語が辞書に書いてあるもののつぎはぎになるような訳者、現実にはいないと思うんだよね。
 で、そういうフィクショナルな訳例を持ち出して主張されるのが、「英語はどうも名詞中心であるのにたいして、日本語は動詞中心なのではないか」ということで、書かれたのは約二十年まえなので、今読んで目新しい感じはしない。具体的な文でこの前提をどう訳文に落とし込むかってところの技術はさすがなところが多かったけど。
 で、無生物主語とか関係詞とか話法なんかをトピックにして英語と日本語の発想の違いってのが検討される。当時出ていた(し、今も手に入るものが多そう)な文献を引いたりして論を進めていく。のだけど、引いた論に異論を挟むこともあって、参考文献との距離の取り方が、なにげに言語論の内容よりも参考になったりした。それどころか、最初に上のような主張を掲げて始まったのに、ラストのほうになったら、こんなことまで言い出すところとか最高だった。

以上、牧野氏の枠組みを借りて、これまでこの章で見てきたことを整理、確認してみたわけだが、こうしてみると、日本語の受身と英語の受動態とは、部分的に少しずつズレはあるものの、基本的にはむしろ、おたがい共通し、重なりあう面のほうが大きいことが明らかになってきたようである。
 しかし、だとすると、先ほども触れたとおり、基本的な軌道修正の必要がやはりありそうに思えてくる。つまり今まで本書では、もっぱら日本語と英語の表現・発想の対立面ばかり強調する傾向があったけれども、実はそれと同時に、共通性、連続面にも注目しなければならないのではないかという疑問である。
これは日本語の受身は被害のニュアンスが出るから受動態を能動で訳そうみたいな話をしていくうちに、あれ、英語にも被害のニュアンスのある受動態あるねってなっての文なんだけど、最初からひっくり返すつもり(たとえば原稿依頼の内容が「日本語の特殊性を強調するような内容に」でそれが気に入らず、受けるだけ受けてここでひっくり返すのを計画していたとか)だったのか、ほんとにハプニングだったのかは不明だけど、こんなにちゃぶ台返すのかと愉快な気持ちになった。しかも話は受身だけに留まらない。英語は時制がきっちりしていて日本語は曖昧でって話を出していたのも、川端の英訳に「同じように過去の描写に現在形を混用し、劇的に臨場感を高める技法はけっしてめずらしいものではない。これが『劇的現在』だが、してみると時制についてみてもまた、日本語と英語のあいだには、対照と同時に連続、共通の面もあるわけだ。」と自説の修正を行う。さらには、使役表現でも似たような修正が入り、怒濤の展開になる。ちょっと長いけど引用する。

そういえば、第三章で使役表現を考えた時にもやはり、実は似たような現象を見たことが思い出される。あの時、われわれは池上教授の図式を借りて、〈使役主〉と〈被使役者〉とのあいだの力関係を、「次郎ヲ行カセタ」から「次郎ニ行カレタ」まで、一種のスペクトルの形で整理した。そして、日本語はこのスペクトルのあらゆる面に表現が分布しているのにたいして、英語の使役表現は歴史的に、〈使役主〉の力が最大になる方向に集中してきたことを観察した。
 だがあの時われわれの見たことは、今、受身について見たことと、結局同じ意味をもっていることが理解できるのではあるまいか。つまり使役にしろ受身にしろ、日本語の表現・発想と英語の表現・発想とは、おたがいにまったく対立するものでも、非連続の関係にあるものでもなく、むしろ、いわば表現の同じスケール(目もり)ないしはスペクトルのうち、日本語はどちら側に片よるか、英語はどのあたりに集中するか、要するに、その度合い、偏差のちがいと理解すべきではないかということである。
 いや、それをいうなら、実は、英語は〈もの〉に注目し、〈もの〉の〈もの〉への「働きかけ」という、動作主性の軸に沿って概念化し、言語化するのにたいして、日本語は状況を〈こと〉としてまるごとすくい取る――つまり非・概念的な状況論理的性格を特徴とするという、本書全体の基本的な命題についてさえ、われわれ自身、これがかならずしも相互に相容れない対立の関係にあるのではなく、むしろ連続の面において捉えるべき関係にあるということは、すでに認めたことがあったのである。
今写してて思ったんだけど、こりゃ最初から計画してのちゃぶ台返しだね。というのは、このあと第二章の終わりのほうが引用されてるんだけど、そこですでに、

どうやら〈もの〉的なとらえ方と〈こと〉的な発想というのは、おたがいにまったく異質の、相対立する関係にあるよいうよりは、むしろ、ある出来事なり情況なりを言語化する歳、どの程度抽象化し、概念化するかという、その度合いのちがいによって出てくる差なのではないかと思えてくる。つまり、いっぽうは〈もの〉に注目して〈こと〉を捨て、他方は逆に〈こと〉を取って〈もの〉は顧みないというのではなく、むしろ、〈こと〉をある方向へ概念化し、抽象化し、ないしは分節化してゆくと、〈もの〉と〈もの〉との関係として〈こと〉を捉える捉え方に到達するということなのではないだろうか。
と書いてあった。むしろここに説得力を持たせるためにあいだの長ーいページがあったんじゃないかという気さえする。というのも、二章のこの部分を最初に見たときにはそのあとすぐ日本語の感覚性(大野晋)に話が飛ぶんで、引っかからずに流しちゃうんだよね。ミステリーの伏線みたいだ。最後のびっくりのために一個仕込んで空惚けてみせたんだよなあ、これも。で、〈もの〉と〈こと〉の対立ってのは、聞いた覚えがある気がする(ここで引用されている池上教授の本を何冊か読んだからなんだけど、ほかでもよく耳にしたような)。著者は実感として「そうとは限らねえよ」って思っていたのかもしれないし、そういう日本語特殊論につながりそうな主張に危険性を感じていたのかもしれない。このエントリーを書き出してから、そんな伏線はなかったかとパラパラ見直してみたところ、案の定あった。はしがきに。

最近「対照言語学」という学問の分野がしきりと注目を集めているようだ。例えば日本語と英語とを比較対照して、個々の単語や語句の意味構造はもちろん、慣用句や文法、表現の基本的なパターンや発想のちがいまで探り出し、ひいてはそれぞれの国民のものの感じ方、考え方の根本的な性格にまで迫ろうとする研究である。
 ある面からすれば、これはいわゆる比較文化論の一種と見ることができるかもしれない。具体的な言葉の対比を手がかりに、結局は文化全体の比較にまで進もうとするわけである。もしも言葉というものが、よくいわれるとおり、われわれのものの感じ方、認識のパターンそのものまで深く限定するものであるなら、あくまで言語の対比を通じて文化の比較に至ろうとするこの方法は、比較文化論のアプローチとして、大きな可能性をはらんだ方法といえるかもしれない。  p.11~12
最後の「もしも言葉というのもが~かもしれない」の部分。これが「筆者は必ずしもそう思ってない」って伏線だったんじゃなかろうか。いや、次の段落で「本書の狙いとしているのも、実は、何かしらこうしたアプローチから、日本語の発想、英語の発想を具体的に対比してみようという点にある」って書いてあるから、初読時にはこの「もしも~かもしれない」はあんまり意味のない飾りだろうって思ったんだけど、次に引用するラストと付き合わせると容貌がだいぶ変わると思うんだ。ラストの引用行くね。

確かに今まで本書では、対照言語学的に、日本語と英語の表現・発想のちがいを浮かび上がらせるというそもそもの狙いからして、その差がいちばん鮮明に現れる面だけに特に注目し、もっぱらその相違のありか、その性質を明らかにすることを試みてきた。そして実際、このギャップを乗り越えるには、往々にしてかなり基本的な発想の転換が必要であるからこそ、いっぽうではまた翻訳読本としてという、本書のもう一つの狙いにも、それなりの意味がありえたのである。
 けれども最後に、やはりこれだけは言っておかねばならない。どれほど異質であろうとも、日本語も英語も、しょせんは人間の言葉である。まったく非連続であるはずはない。相違と同時に共通の面も実は大いにあることを忘れては、全体についての判断のバランスを失い、木を見て森を見ないどころか、下手をすれば、妙にゆがんだ言語学的国粋主義に陥る危険さえなくはない。いや、それより何より、もしかりに、日本語と英語が完全に非連続であるのなら、そもそも比較対照するということ自体が無意味だろうし、第一、はじめから翻訳などという操作すら不可能なはずではないか。われわれが今まで追及してきた対比というのも、実は、この基本的な連続という大前提の上に立って、はじめて意味をもつことだったのである。最後に、この巨視的な大前提を再確認して、本書を閉じたい。
巻末データ見ると、これの親本は八三年に出たものだ。当時の英語産業どんなだったかなんて想像もつかないわけだけど、著者上智の教授だった人なんだよね。となると、渡部昇一と職場が同じだったわけで……なんてことに想像が広がっていくのをどうすることもできない。
 ぼんやり読んでたもんだから、ちゃぶ台返しが面白えくらいの感想だったんだ、実は。だけどあちこち引いてるうちに、もしかしてこれってば、時代状況に釘を刺そうとした結構反骨心溢れる本だったんじゃないの? って認識が改まったし、おそらくはそっちが正解(じゃなきゃ、あんな早い段階からひっくり返すためのネタを仕込むはずがない)。エントリ書き終わった今になっていい本読んだなあって気分になっている。こんなこともあるんだね。
(しかし今になって不思議なのはアマゾンのレビュー書いてる人たちで、みなさんもしかして、上に引用したラストの部分、読んでないんじゃないか?)


英語の発想 (ちくま学芸文庫)

0 件のコメント: