2019年3月19日火曜日

柴田宵曲 『俳諧随筆蕉門の人々 』


タイトルどおりの本で、蕉門の人びとの作品を取りあげて、それぞれの個性を描出する感じ。取りあげられているのは、其角、嵐雪、惟然、凡兆、去来、丈艸(字、表示されるかなあ)、史邦、木導、一笑。

著者の名前で開いた本なので、当然というべきか、どんな人とわかっていた人物はゼロである。其角だけ名前を聞いたことがあるかもってレベルで、丈艸は芥川が褒めていたらしいのだが、ちくまの文庫全集読んでるのにまったく記憶になかった。収録されていなかったのか忘れたのか。

で、なーんも知らない人間が300ページ以上も読めちゃったのは、例によって文章が静かで心地良いからってのもあるんだけど、各章の始まりがちゃんとフックとして機能していたってこともあった。試みに各章の冒頭を引いてみよう。

其角
蕪村(ぶそん)の『新華摘(しんはなつみ)』の中に「其角(きかく)は俳中の李青蓮(りせいれん)と呼れたるもの也」ということがある。こういう比喩的(ひゆてき)な言葉は、往々にして誤解を生じやすい。気の早い読者は「俳中」という肩書を離れて、直(ただち)に李白(りはく)と其角との比較を試みるからである。 p.9

嵐雪
蕉門の高弟を談ずる者は、何人も先ず其角(きかく)、嵐雪(らんせつ)に指を屈する。後世の評価がそうなっているばかりではない。当時の相場もやはり同様であったらしい模様である。だから其角を書いた以上は嵐雪を書かなければならぬというわけもないが、ついでを以て少しく観察を試みることにしたい。 p.39

惟然
多士済々(たしせいせい)たる蕉門の俳人のうち、世間に知られたという点からいえば、広瀬惟然(ひろせいぜん)の如きもその一人であろう。惟然の作品は元禄俳壇における一の異彩であるに相違ない。けれども彼はその作品によって知られるよりも、先ずその奇行によって知られた。飄々(ひょうひょう)として風に御するが如き奇行にかけては、彼は慥(たしか)に蕉門第一の人である。  p.63

凡兆
凡兆(ぼんちょう)について記(しる)すのは容易ではない、というよりもむしろ改めて記すだけの材料がないといった方がいいかも知れぬ。中途で俳壇から消え去った凡兆の一生は、依然として不明である上に、凡兆の句については明治以来定評と目すべきものがあって、必ずしも異を立てるほどの余地を発見し得ぬからである。  p.98

去来
蕪村(ぶそん)が『鬼貫(おにつら)句選』の跋において其角(きかく)、嵐雪(らんせつ)、去来(きょらい)、素堂(そどう)、鬼貫を五子とし、その風韻を知らざる者には共に俳諧を語るべからずといったことは、前に嵐雪の条に記した。五子なる語はこれにはじまるのであろう。  p.139

丈艸
芥川龍之介氏が蕉門の作家の中で最も推重していたのは内藤丈艸(ないとうじょうそう)であった。  p.184

史邦
 史邦という俳人は従来どの程度に見られているか、委(くわ)しいことは知らぬが、あまり評判になっていないことだけは慥(たしか)である。史邦は「シホウ」と読まず、「フミクニ」と読むのだという。しかし「史邦吟士」と称し、「史子」と呼ぶような場合にも、一々音読を避けていたかどうか。(中略)
史邦の句に多少注意し出したのは、彼の句に動物を扱ったものが多いように感ぜられたからであった。  p.236

木導
芭蕉の遺語として伝えられたものを見ると、曲翠(きょくすい)が「発句(ほつく)を取りあつめ、集作るといへる、此道の執心なるべきや」と尋ねたに対し「これ卑しき心より我上手(わがじょうず)なるをしられんと我をわすれたる名聞(みょうもん)より出る事也。集とは其風体の句々をえらび我風体と云ことをしらするまで也。我俳諧撰集の心なし」と答えている。ここに集というのは必ずしも撰集と家集とを区別していない。いやしくも「我上手なるをしられん」としての仕業である以上、撰集たると家集たるとを問わず、芭蕉はこれを「名聞より出る卑しき心」の産物として斥(しりぞ)けたのである。  p.265

一笑
 芭蕉が「奥の細道」旅行の帰途、北陸道を辿って金沢に入ったのは、七月十五日、あたかも盂蘭盆(うらぼん)の日であった。ここにおいて一笑(いっしょう)の墓を弔(とむら)い、有名な秋風の一句をとどめたことは『奥の細道』の本文に次のように出ている。
一笑と云(いう)ものは此道にすける名のほのぼの(原文「ぼの」は繰り返し記号に濁点)聞えて、世に知(しる)人も侍しに去年(こぞ)の冬早世したりとて、其(その)兄追善を催すに
     塚も動け我(わが)泣(なく)声はあきのかぜ 
p.293
冒頭で李白との比較を持ち出された其角は「危きに遊ぶ大家」とも評されていて、この段階で句の一つも提示されていないものだから、そりゃ是非とも見てみたいって気分になったし、嵐雪は前章で取りあげてる其角と絡めた紹介だからすっと本文に入っていけた。惟然と凡兆についてはいきなり人物への興味を植えつけられた感じがした。で、凡兆のあたりで去来は予告的に意固地者っぽく出てきてて、この冒頭で「なんと、そんな実力者でありましたか」ってなってやっぱり読まねばって気分に。丈艸は芥川の文にもたれる形で権威づけしてから紹介に入ったので、これまた「さようでございますか」と大人しくお話を聞いた。史邦は引用部最後のところで俄然興味が湧いた。木導はちょっと引用だけだとわかりにくいかもしれないが、そのあと蕉門の弟子連は一人も生前に自家集を上梓しなかったってエピソードが紹介されたあと、家集の序文まで書いたのに死んだあとも刊行されぬまま、最近やっと日の目を見たような作者もいる、そのうちの一人が直江木導(なおえもくどう)だったと性格描写をバーンと出してからプロフィール紹介に移る。一笑は本人じゃなくて芭蕉のエピソードから入って、早世したってことをキーに語るのがなかなか吸引力あった。

作品紹介本の価値はひとえに紹介されているものが読みたくなるかどうかだと思うのだが、本書は取り上げられた人物の句をもっと読んでみたいと何度も思わせてくれたので紹介本として優秀なのは間違いない。のだけれども、たとえば其角の『五元集』とかって、アマゾン検索しても出てこなくて、なんてこったいな気分になった(とりあえず『蕉門名家句選(amazon)』という本があるようなので、そのうち眺めてみたい)。なんとなく、宵曲読んでいると、澁澤龍彦読んでるときに近い感じを覚えることがあるんだけども、この紹介された原典に手が届かないとことかが似てるんだろうか。澁澤のふんぞり返り芸(好きです)とはまるで違う芸風なので、なんで連想するのか自分でもちょっと不思議だったりする。
 世の中には蕉門十哲という言い方があって、これが芭蕉の十大弟子ってことになっているようなんだけど、リストを見ると、本書で扱われなかった人も結構いる。どっか別の場所で扱っているのか、触らずじまいになってしまったのかも気になる。『古句を観る』(感想)読んで、これも読んだので『新編俳諧博物誌』(amazon)も、そりゃ読まねばなるまいという気分になっている。ひとえに著者の文章のゆるやかな調子のためである。なかなかいないんだよね、連続して読んでもっと読みたいってなる人。


俳諧随筆蕉門の人々 (岩波文庫 緑 106-2)

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