2019年3月11日月曜日

森銑三・柴田宵曲 『書物』



『古句を観る』の感想でも書いたとおり、柴田宵曲を知ったきっかけは森銑三。そのふたりの共著なので買うだけはとっくに買っていて本棚の肥やしにしていたのを勢いのままに引っ張り出して読んでみた。amazonの内容紹介はこんな。
生涯を近世の書物研究にささげた森銑三(1895―1985),柴田宵曲(1897―1966)による書物をめぐる随想集.真向から書物,読書,出版についてのモラルとでもいうべきものを説く森銑三に対し,淡々とした文章でそれらの楽しみを語る柴田宵曲と,文章は対照的であるが,どこから読んでもおもしろい1冊になっている.(解説=中村真一郎)
てっきり岩波文庫の表紙に書いてあることと同じかと思ったら、「どこから読んでもおもしろい1冊になっている」ってところは文庫表紙だと「その端ばしに「書物への愛」があふれている。」と違いがある。なんでなんだろね。
だいたいはこの紹介文のとおりかなという気がする。せっかくだから目次も掲げとく。

  • はしがき
  • 増訂版序文
  • 甲篇(森銑三)
    「書物」という書物
    書物に対する心持
    書物過多の現状
    良書とは何ぞや
    著述家
    出版業者
    書肆以外からの出版物
    出版機構の欠陥
    良書の識別
    ラジオと著述家
    良書の推薦
    書評
    書物の量
    書名
    序跋
    装丁
    木版本と写本
    流布本と珍本
    古本屋・即売会
    蒐書
    書物の離散
    書物の貸借
    贈られた書物・贈る書物△
    図書館
    児童図書
    青年図書
    辞書・参考書
    叢書・全集
    書目
    素人の手に成った書物
    見る書物○
    形の大小○
    不完全○
    著者から見た自著
    出でずにしまった書物○
    問題の書物○
    誤植○
    読んだ書物の思出
    探出した書物○
    雑誌○
    まだ見ぬ書物
    見ることを得た書物○
    手がけた書物○
    私の欲する書物
    書巻の気○
    出版記念会○
    結び――書物愛護の精神
  • 乙篇(柴田宵曲)
    書物と味覚
    辞書
    写本
    珍本
    書名
    書斎
    読む場所
    読書と発見
    書物の記憶
    貸借
    欲しい書物
    蔵書家
    愛書家○
    蒐書家気質
    二度買う場合
    自著○
    広告文
    売行
    序文
    挿画
    書物の大小
    断簡
    書物の捜索
    古本の露肆
    貸本屋
    書物を題材とした作品
    書物の詩歌○
    焼けた書物○
    書物と人間
  • 解説(中村真一郎)
書き出すと結構項目あったな。全体は330ページちょっとなので、1本ごとの短さが知れようというもの。で、柴田宵曲の文章読みたくて読み出した本書なのだが、読み終えると森銑三のパートばかりが印象に残った。いい意味ではないのだがややこしい事情も絡んできて「むむむむむ」ってなってしまった。
内容紹介にもあるように、ふたりの文章は対照的だ。柴田宵曲のほうは淡々とした筆致で、というのは『古句を観る』と同じく快適に読み進めることができた。それに対して森銑三のパートは「真っ向からこれらのテーマに切りこむ」と言えば聞こえはいいが、ことに前半は「ぼくの抱える本関連トピックへの不満とその処方箋」みたいな文章が並んでいる。「心持」とか「現状」とか「出版機構の欠陥」とかって文字面から予想できることだろうけれども、これがすっげえ退屈なクリシェだらけで、読みながら「え、この人、抜き書きとっぱらうとこんなつまんねえことしか言えねえの? うわ、ショック」って思ったくらいだった。上の文字面から想像できることを想像できるとおりに書いてある。読書を修身の道みたいに考えている人が言いそうなことがずらずらと。今も色んな人が言ってそうなことがずらずらと。しかも出版社への要望とかがほんとにひどいんだけど、まとめると「作るのに金はかけろ、著者の好きにさせろ、売れ行きとか言うな」って感じになってて、アホかと。こういうお説教が好きな人にはいいのかもしれないんだけど、おれは全然受けつけなかった。しかも森銑三って図書館通いがトレードマークなとこあるわけで、買わない客のクレーム集かこれはってな気分も湧いた。一箇所典型的な箇所を長めに引いてみる。

書物の出版量の激増しているのに反して、その実質は往昔(おうせき)に比して下落して来ている。近来は殊(こと)にその傾向が甚(はなはだ)しい。書物の氾濫ということは要するに凡書の氾濫を意味しており、千百の新刊書中、一、二の良書を見出すことが困難とせられる。ただ售(う)らんがための、その場限りの書物があまりに多過ぎる。さような書物がいかに多量に生産せられようとも、それはその国の文化の向上を意味しない。さような書物に敬意を以て対する気持の起こらぬのもまたやむをえぬことである。書物の粗末に扱われるのも当然というべきかも知れぬ。前章においては、書物を鄭重にすべきことを力説したが、かように見て来ると、それも致(いた)し方(かた)のないことかも知れぬ。そういわざるを得なくなりそうである。ここにおいて私等は、忽(たちま)ち一つの矛盾撞着(むじゅんどうちゃく)に陥ってしまう。いずれにもせよ、かような書物過多、出版物過多の状態にあるということは、読書家のためにも、書物そのもののためにも、好ましからぬことどもといわねばならぬ。要するにあまりに安価な態度で書物が作られ過ぎている。私等は書物そのものをも、また著作ということをも、もっともっと重く見たい。それには書物そのものを単なる商品と見ている出版業者の頭から改造して行かねばなるまい。(中略)書物をかように安直なものとしてしまった責任の一半は、利慾以外に何者もない出版業者が負うべきではないかと思う。pp.26-27

ね、今もその辺のブログとかで書いてありそうな文言でしょ。
こんなことも書いてある。こっちも長いけど写してみよう。

 出版業者に取っては出版は営業であり、営利ということが唯一のといって語弊があるならば、第一の目的となっている。売れそうな書物でなくては出そうとしない。あるいは売れそうな書物なら何でも出そうとする。そうした態度があまりにも露骨(ろこつ)であったりする。出版界を見渡しても、信用のある出版業者というものがあまりになさ過ぎる。異色のある業者すらも乏しい。個性のある業者、確乎(かっこ)たる方針を有して、それに依って仕事を進めている業者、書物の実質的価値を正しく解することの出来る業者、高い趣味を解する業者、儲(もう)けること以外に、よい書物を出版することを以て楽しみとしている業者、そうした人たちがあまりになさ過ぎる。
(中略)
出版界のみとは限らぬが、失敗はしても、良書は世に送り出して、それが天下後世を益するものだったら、己の懐(ふところ)は肥えなくても、時にはために痛手を負うても、出版業者として立派に成功したのだ。そういう信念で仕事してくれる人が出て来てくれたら、いかばかりか頼もしいことだろう。かようなことをいったら、すぐにその下から、私たちも食っていかなくてはなりません、といわれそうであるが、一人前の男が、ただ口を糊(のり)して行くという一事のために貴重な一生を棒に振ってしまおうとしているのは、決して褒(ほ)めたこととはいわれまい。
まず儲けて置いて、それからほんとうによいものを出して、理想の実現を期します、という態度の業者もいそうな気がする。しかしその通りに実行した実例は存外乏しいのではなかろうか。十も二十も悪いことをして、罪業(ざいごう)消滅のために一つか二つだけ善(よ)いことをして、それで涼しい顔をしようとするのはあまりに虫が善(よ)過ぎる。しかもその善事を大げさに振廻すに至っては鼻持(はなも)ちがならぬ。そうした意味の出版物も時に見かけないではないが、その出版物の内容がいかによいものにもせよ、どこかに俗臭のまつわり附(つ)いているのが顔を背(そむ)けしめる。
たとい大きく儲けなくても、一つ一つ粒選(つぶよ)りの書物を出して行こうと心懸ける、良心的な潔癖な出版業者を見たい。出して行く書物の一つ一つに依って自分の店の個性を造り上げて行こうとしているような業者を見たい。出版協会はそうした業者を盛り育てて行くようにしてもらいたい。
一つでも当ると儲けが大きいから出版業者となった、というだけの人間があまりに多過ぎる。それでは出版文化も何もあったものではない。pp.34-37
「出版文化も何もあったものではない」ってやたらイキっておりますが、「ただ口を糊して行くという一事のために貴重な一生を棒に振ってしまおうとしているのは、決して褒めたこととはいわれまい」とか言うなら自分で出版社やってみたらどうですの? とか反論したくなる。そのあとの「まず儲けて置いて、それからほんとうによいものを出して、理想の実現を期します、という態度の業者もいそうな気がする。しかしその通りに実行した実例は存外乏しいのではなかろうか」に至ってはなんの根拠も示さない印象論だし、その次のくだりなんてもう目茶苦茶である。
ついでにもう一箇所。
出版業者は商人である。大いに売れて大いに儲かりそうな書物ばかりを出したがる。勢い時好に投じようとする。そのために業者の企画と企画とが同一方向に赴(おもむ)きやすく、似寄りの書物が一時にあちこちで出版せられたりする。機先を制しよう、そのために少しでも急いで作ろうとする結果は、著者にも粗製濫造を強(し)いることになる。p.40
今も同じだと思うか、文句のフォーマットに変化がないと考えるかは人によりそう。もういい加減長いので引用するのはやめておくけれど、書く側のことも、ことに売れっ子についてはこんな感じの想像できるよねってフレーズてんこ盛り。著述家という名称にすでに卑屈な感じが伴っているとか言ってるの。本書の「はしがき」で森銑三は

書いてもよいことと、書かなくてもよいこととの区別が附かぬ。結局「書物に興味を持って書物と共に暮している二人の男のたわごと」とでもいうべき、見事無用の書が出来上がった。(中略)かような書物を作ったことにどう意義があるのか。それは私らにも分らない。始末の悪い書物を拵えてしまったものだと、今になって思っている。
と言っているが、まったくそのとおりのたわごとだと何度思ったかわからない。
ところが、この「はしがき」の日付が「昭和十八年五月下旬」となっていて本書の刊行が昭和19年なものだから、話はややこしいというか、糞くだらないたわごとと切って捨てるわけにはいかなくなるのだ。『古句を観る』の感想で書いたことと似てくるんだけど、上に引用したことすべてのターゲットが出版業界の戦争翼賛に対する不満の表明だったらと考えるなら、こりゃ相当な覚悟で書いた文ってことになる。
「書物の出版量の激増しているのに反して、その実質は往昔に比して下落して来ている。近来は殊にその傾向が甚しい。」
「ただ售らんがための、その場限りの書物があまりに多過ぎる。さような書物がいかに多量に生産せられようとも、それはその国の文化の向上を意味しない。」
「売れそうな書物でなくては出そうとしない。あるいは売れそうな書物なら何でも出そうとする。そうした態度があまりにも露骨であったりする。出版界を見渡しても、信用のある出版業者というものがあまりになさ過ぎる。」
「私たちも食っていかなくてはなりません、といわれそうであるが、一人前の男が、ただ口を糊して行くという一事のために貴重な一生を棒に振ってしまおうとしているのは、決して褒めたこととはいわれまい。」
「十も二十も悪いことをして、罪業消滅のために一つか二つだけ善いことをして、それで涼しい顔をしようとするのはあまりに虫が善過ぎる。しかもその善事を大げさに振廻すに至っては鼻持ちがならぬ。そうした意味の出版物も時に見かけないではないが、その出版物の内容がいかによいものにもせよ、どこかに俗臭のまつわり附いているのが顔を背けしめる。」
「出版業者は商人である。大いに売れて大いに儲かりそうな書物ばかりを出したがる。勢い時好に投じようとする。そのために業者の企画と企画とが同一方向に赴きやすく、似寄りの書物が一時にあちこちで出版せられたりする。」
こうした文を昭和18年頃書かれたものという前提のもとに読むと、森の怒りまくってる対象がどんなタイプの本か見えてくるわけで、文字面クリシェだけども発する意図の違いが文の色を変えさせるというか、「馬鹿じゃねえ?」が「すげえ!」に変わる。そしてそう読まないと、「十も二十も悪いことをして~」というメタファーの意味がわからない。逆に書かれた時代を前提にすれば、とてもクリアな読み取りができる。
 そして、「はしがき」の引用箇所にある「見事無用の書」というフレーズの意味も変わる。役になんて立ってたまるか馬鹿野郎である。おまけにこんな本が昭和19年段階で出せたというのは、昔読んだ佐藤卓己の『言論統制 情報官・鈴木庫三と国防国家』(感想)のモチーフ、出版業界総出(編集者も作家も)で戦争に協力的だった自分たちの臑の傷を隠そうとする戦後の動きにも一撃を加えているんじゃないかと思う。こんな「無用の書」が出せるってのは、協力するしかなかったんだって言い分の信憑性を疑わせる。たぶんそれが「かような書物を作ったことにどう意義があるのか」という問いへの当時の筆者たちには知りようもなかった答えだ。本人たちがほくそ笑んだ以上に「始末の悪い書物を拵えてしまったものだ」の射程は長い。
 というような視点と、文字面を普段の(つまり現代の)読解処理にかけようとする脳味噌の条件反射(こんなもん糞馬鹿げたたわごとだ)とが葛藤しまくったために、甲部分に対しては嘘みたいに複雑な読後感が出現した。そのせいでメインだと思って読んだ乙部分は(著者のスタイルがやっぱり外部情勢はすべて無視するってことを徹底しているのもあって)見事に流されてしまった。著者名の順番がなんで年功序列じゃなくて森銑三が先なんだろうと思っていたんだが、こりゃ執筆の分担量だけじゃなくて確かに森銑三の本という印象が強く残るわな。
 基本的には作品って作品単体で評価すりゃ十分じゃないかと、普段本読むときには思ってるんだけど、こういう書物を読むときにはバックグラウンドっていうか執筆年代とその当時の社会情勢くらいは知っておいたほうがいいんだなということもわかった。見慣れたクリシェにも輝きを放った時代があったということが最大の発見。

 で、こんだけ書いたのにおまけを少し。解説の中村真一郎。解説者に求められる基本データの提示もほとんどしないうえに、「お二人とも、この書物の中では、日頃の精妙な文献的追尋の操作から自由になって、浴衣掛けで仕事の余暇を遊んでいる」などと、おれの読みを台無しにするようなことを言ってくれた挙げ句、ほとんど自分の思い出だけを書く(しかも、森銑三とも柴田宵曲ともなんの関係もないエピソードばっかり書く)という大家にしか許されない仕事っぷりを披露していて、「いい加減にしろよ」と思ったら、最後のほうで「森さんの本は、いつも勉強に読むが、柴田さんの本は昔から、過多をほぐすために取り上げながら、いつの間にか俳諧の神髄を覗かせてもらっている」と、一文で両著者の特徴をきっちりまとめて解説の仕事を強引に果たしてるのが、あきれ半分に感心した。最初から最後まで一筋縄ではいかない本だった。

書物 (岩波文庫)

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