2019年3月2日土曜日

ジョゼフ・チャプスキ 岩津航訳 『収容所のプルースト』



ツイッターで書名を知った本。昨日本屋行ったら棚にあったので購入した。
amazonの内容紹介はこんな感じ。
1939年のナチスとソ連による相次ぐポーランド侵攻。このときソ連の強制収容所に連行されたポーランド人画家のジョゼフ・チャプスキ(1896 - 1993)は、零下40度の極寒と厳しい監視のもと、プルースト『失われた時を求めて』の連続講義を開始する。その2年後にチャプスキは解放されるが、同房のほとんどが行方不明となり、「カティンの森」事件の犠牲になるという歴史的事実の過程にあって、『失われた時を求めて』はどのように想起され、語られたのか? 現存するノートをもとに再現された魂の文学論にして、この長篇小説の未読者にも最適なガイドブック。
* 「カティンの森」事件……第二次世界大戦中にソ連の内務人民委員部によって2 万人以上に及ぶポーランド軍将校、官吏、聖職者らが虐殺された事件。アンジェイ・ワイダ監督による映画『カティンの森』(2007)でも知られる。
そんな過酷な環境でなぜプルースト? という疑問はたぶん愚問。訳者解説にはプリーモ・レーヴィが収容所のなかでどうしてもダンテを語りたいという衝動に捕らえられた話が引かれていたけれど、たとえば宮内悠介『カブールの園』(amazon)には第二次世界大戦下の日系人が文学その他の創作活動に取り組んでいたエピソードが出てくるし、敗戦直後には国内で『善の研究』(青空文庫)を求めて行列ができたなんて話もある。そういう状況だからこそと考える方がおそらくは当たっているのだと思う。
とはいえ、著者の序文に書かれた以下の文を読んだときには「すげえことだな」と思わずにいられなかった。
 いまでも思い出すのは、マルクス、エンゲルス、レーニンの肖像画の下につめかけた仲間たちが、零下四十五度にまで達する寒さの中での労働のあと、疲れきった顔をしながらも、そのときわたしたちが生きていた現実とはあまりにもかけ離れたテーマについて、耳を傾けている姿である。
わたしは感動して、コルク張りの部屋でびっくりしているプルーストの顔を思い浮かべた。まさか自分の死後二十年経って、ポーランドの囚人たちが、零下四十度はざらに下回る雪の中で一日を過ごしたあとに、ゲルマント夫人の話やベルドットの死など、あの繊細な心理的発見と文学の美に満ちた世界についてわたしが覚えていたことの全部に、強い関心を寄せて聞き入ることになるとは、さすがの彼も思わなかっただろう。
著者はここで感動という言葉を使っていて、それは場の状況と話す中身のギャップを踏まえた聴衆の反応について言ってるんだろうと思う。思うし、前述のようにそれはおれもすげえなおいと思った。そのうえでの戯れ言としては、状況関係なく、プルーストの話をして熱心に聞かれるってこと自体も感動的な話に思える。おれは一昨年読了したんだけど、これほど人に話すの躊躇する作品はあんまりないのである。ストーリーを極端にまとめてしまえば、「マザコン男があれこれモテながら年を取り、よし小説を書こうと思った」 という話なんだけど、長さは文庫で13冊あって、読んでいると何度も「ここにはすべてが書いてある」っていう気分が沸きあがるいっぽうで、バスなんかで読んでいると段落が始まるたびに段落終わりを確認しないと途中で降りることになるかもしれないという心配をしなくちゃいけないレイアウトで、冊数だけじゃない理由から人に勧めるのはほとんど無理だし、話している相手が読んでいることを期待することもほぼ無理なんだけど、再読しちゃうくらい魅力的(1巻に関しては集英社文庫、光文社古典新訳文庫合わせて5回読んでる)な、言ってみれば写真写りが悪くて警戒心の強い、それでいてたまらなく可愛い猫みたいな作品なのである。あるいは無茶苦茶面白かった今朝の夢みたいなもんかも。話す機会が到来し、しかも相手が熱心に聞いているって状況だけで十分に感動できる気がする。
もちろん、『失われた時を求めて』には複数の訳書があって、今も複数のバージョンが刊行中なわけだから、読了人数は考えられているほど少なくもないとは思うんだけど、呑み込んだものを吐き出したり、経験を共有したりってのはなかなかできないから関連書がいっぱい出ているんだろうかというのが、上記の引用箇所を読んで初めて浮かんだ連想。amazonでプルーストを検索すると意外なほどヒットする(こんな)のは、語る相手がいない=ほかの人がプルーストをどう読んだか知りたいって欲求がニーズになっているからなのかもしれない。
で、本書は状況の特殊性を差し引いても、そうした飢えを割と癒やしてくれる。作者と語り手を混同しているのだって、当時はそう読まれたんだな(チャプスキはプルーストを同時代小説として読んでいるので、全然不思議なことではない。ずっとあとになってから作品内に「わたし」の名前が一度も出てこないということが明らかになったんだけど、まあその件は『マルセル・プルーストの誕生』(amazon)でも読んでくれ)ってなもんだし、むしろ『失われた時を求めて』にパスカル的なところがあるって指摘だったり、「プルーストの作品にはいかなる絶対の探求もなく、あの長大な数千ページのなかに、『神』という言葉は一度も出てきません」なんて指摘だったりを読んで楽しくなった(つまり、もっかい読み返そうかなと思った)。フランソワーズが口走ってそうな気がするんだけどね、神。
ただ、最後の最後、本文後ろからふたつめの段落の最後の言葉については、状況の特殊性というものをやはり考えずにはいられなかった。プルーストのあれこれを軽やかに語ってきた著者はしめくくりでこう述べている。
医者たちの診断では、彼(プルースト)の健康状態は「仕事場の劣悪な衛生環境」のせいで日に日に悪化していたにもかかわらず、いかなる治療も信じず、一切の療法を拒否しました。医者をしている弟が治療を強制すると、憤然としました。自分の健康状態を見れば、作品が要求する膨大で熱に浮かされたような仕事が死期を早めることを、理解していないはずはありませんでした。それでも、仕事に賭けた彼は、もうそんなことに気を遣うことなく、死も本当にどうでもよくなっていました。
「わたしたちが生きていた現実とはあまりにもかけ離れたテーマ」が、ここで初めて現実と結びついたように読めた。そしてもう一段落を経て、本書は静かに幕を閉じ、そのあとの著者年譜で著者が93年まで生きて100近い天寿を全うしたことを知り、少しだけホッとする。そうした情報まで入れてくれた訳書の作りにも好感を持った。
『失われた時を求めて』読了仲間を求めてな人だったら、きっと楽しめる本だと思う。1925年前後、つまり大正の終わりとか昭和のはじめとかに読了した大先輩の話は一聴の価値ありです。


収容所のプルースト (境界の文学)


ウルトラ蛇足:最後の引用部分について。『プルーストによる人生改善法』(amazon)って本には、すべて台無しになるようなエピソードが紹介されていたような記憶(たしかパーティーいって風邪拗らせたのがとどめになった的な話だった)があって、実際のところはどうだったんだろうなあとも思った。

0 件のコメント: