2019年1月31日木曜日

倉橋耕平『歴史修正主義とサブカルチャー』


くまざわ書店で見かけ購入した。
まず内容紹介引用。


メディアにヘイトスピーチやフェイク・ニュースがあふれ、「右傾化」が懸念される現代日本。「歴史修正主義(歴史否定論)」の言説に対する批判は、なぜそれを支持する人たちに届かないのか。
歴史修正主義を支持する人たちの「知の枠組み」を問うために、歴史を否定する言説の「内容」ではなく、「どこで・どのように語られたのか」という「形式」に着目する。現代の「原画」としての1990年代の保守言説を、アマチュアリズムと参加型文化の視点からあぶり出す。
「論破」の源流にある歴史ディベートと自己啓発書、読者を巻き込んだ保守論壇誌、「慰安婦」問題とマンガ、〈性奴隷〉と朝日新聞社バッシング――コンテンツと消費者の循環によって形成される歴史修正主義の文化と、それを支えるサブカルチャーやメディアの関係に斬り込む社会学の成果。
タイトルを最初に聞いたときイメージしたのは、たとえばガンダムだとかジャンプ漫画だとか小室哲哉の歌詞だとかかいかに歴史修正に荷担したかみたいな話だったが、そんなものはどこにも出てこなかった。安心してくれ(って誰に言っているのか)。
歴史修正主義とはなんぞやってのはググってもらうとして、本書の問題意識は、「はじめに」によると「歴史修正主義の著作は、すでに数多くの批判にさらされている」が、
それでも勢力は縮小するどころか拡大しているように見える。なぜなのか。主張が「欺瞞」や「隠蔽」、ならびに「誤謬」と「無知」に満ちていると指摘され尽くしていても、なぜ彼らはそれをやめないのか。
「彼ら」は、学者による批判を意に介さない。「ゲーム」(知的枠組み)が違うからだ。私たちが、一般的な社会活動で共有している「手続き」(客観性、事実、エビデンス、調査、議論、承認など)それ自体が失効している印象さえ受ける。(中略)この状況を支えるものはなにか。
であり、その問いにメディア分析というアプローチをかけるのがたぶん本書の特色になっている。分析対象はサブタイトルにもなっている90年代保守言説。そこに現在の知的風景の「原画」があるように思うと著者は言う。
 で、その原画を「歴史修正主義を取り巻く政治とメディア体制――アマチュアリズムとメディア市場」「『歴史』を『ディベート』する――教育学と自己啓発メディア」「『保守論壇』の変容と読者の教育――顕在化する論壇への参加者」「『慰安婦』問題とマンガ――『新・ゴーマニズム宣言』のメディア論」「メディア間対立を作る形式――〈性奴隷〉と新聞言説をめぐって」の5章プラス終章「コンバージェンス文化の萌芽と現代――アマチュアリズムの行方」で描いてみせる。
 のだが、この感想を書いている筆者はまとめるのが非常に苦手なのでそれはほかのレビューを読んでもらうことにしてほんとに感想だけ。
 歴史修正主義者の使う詐術についてはよく論じてあると思った。特にディベートという形式にこだわる理由(通説と論拠薄弱な主張をあたかも同じ等級に属する選択肢であるかのように見せかけるため)とか、『戦争論』が当時のマンガとしては売り上げが飛び抜けていなかったにもかかわらず、ベストセラーであるかのように見せたトリックなんかは面白かった。また、論者がアマチュアであるって指摘は今世紀初頭から言われていたことだけど、その典型例として稲田朋美を取りあげ、防衛大臣になるまでに至った歩みを「『保守ハガキ職人』のシンデレラ・ストーリー」と形容していたのには笑った。同時に「そういうキャリアだったの!」と驚きもした。このあたりは分量も適度にまとまっているし、読みやすく、「へええ」って思うところが各章にいくつかある。
 でもって、何人かの論者の歴史観(?)を並べてみせてくれたおかげで、この手の話題を見ていて初めて「ああ、この人たちは歴史を政治に従属させたいんだな」ということにも気がつけた。あとこれはほんとうに感心したんだけど、上記の感想を持ったときにあれこれ考えて、「政治に歴史を従属させたいとして、そういうのに取り込まれる人間が片っ端からミソジニー抱えているように見えるのはなんで?」って疑問を抱いたら、直後に答えが書いてあった。
 彼らがことさらに「男性性」を称揚した背景には、一九九〇年代が日本で「男性性」を問い直した時期だったことも関係しているだろう。フェミニズムを経由したあとで「男性学」が提唱され、「男性性 masculinities」に対して、経済不況の遡及と女性への暴力批判が相次ぎ、九〇年代の男性の規範は揺れていた。そして、その揺り戻しが二〇〇〇年代突入直後に起こったジェンダー・バックラッシュだった。(p.97)
これまでに視界に入った例で、ここでいう歴史修正主義的言説に染まったタイプは全部盛り化する場合が多い印象があったのだけど、全部震源は似たようなところにあるということなのかもしれない。
 あと本題とはずれるんだけども、引用されている北岡俊明のことば「ディベートこそ国益をまもる技術である」(九六年に書かれたもの)なんかは、読者がディベートを身につける動機づけに使われていることを考えると、数年後にライトノベルとかのジャンルで揶揄された「セカイ系」の走りみたいな構図だなと思った。なんで読者がディベートできるようになると国益が守れるのさ。
 と、苦笑い含めて結構笑ったし、やり口をまとめているところはとても有益だと思ったんだけども、不満もある。不満っていうか、こっちの勘違いなんだけど。
 最初にタイトルを見たときにイメージしたのと全然違ったと書いた。本文でも似た勘違いが起きていて、何度か「彼らの知的枠組み(ゲーム、ルール、ジャンル)」ということばが出てくるのだけど、おれはそれを読んで、この本最後にそのゲーム、つまり歴史修正主義者の仕掛けてくるゲームの必勝法を提示してくるに違いないという期待を持ってしまったのね。残念ながらというか当然というか、そんなものの提示はされなかった。いや、形の上ではいちおう提示して終わってるんだけど、かなり拍子抜けな提案でしかなかった(期待値がでかかったので)。そこで「おおっ!」ってなるようなことが書いてあれば、一生忘れない本になったとは思うものの、さすがにこれは期待するほうがおかしかった。
 で、慌てて捕捉すれば、たとえ歴史修正主義者とそのファンに対する必勝法が提示されていないとしても、やり口を知っておくのはとても大事だ。おれおれ詐欺だってそういうものがあると思えばうっかり騙される確率は減る。連中のロマン主義みたいなものがどんなせっこい手法で成り立っているかを知れば、ロマンなんて感じようもなくなるし、おかしな両論併記をおかしいと思えるようにもなる。知り合いが染まっちまった場合に手遅れになるまえに憑きものを落としてやれるかもしれない。もしも『日本国紀』買おうかな、なんて気の迷いを起こしたら、ふらふらとレジにいくまえに本書に目を通せば(立ち読みでもいい)、たぶん余計な出費を2000円程度抑えられる。だけじゃなく、今後繰り返し出てくるであろう同工異曲な本に無駄金を使わなくても済むようになる(その手の本のamazon商品ページを見るとわかるんだけど、「これも買っています」ってところが嘘みたいに同工異曲本リストになっているので、このジャンルには依存性があると考えられる)。歴史修正主義が跋扈している現在、本書はどう考えても、自衛用のワクチンとして読んでおいて損のない本である。

『歴史修正主義とサブカルチャー』(amazon

今amazonを見て、著者がもうすぐ安田浩一(『ネットと愛国』とかの著者)と共著を出すことを知った。これも面白そうである。