2022年7月21日木曜日

白井聡『主権者のいない国』より引用


 「文明としての新自由主義」の核心には、人間の内的なもの、すなわち価値感・感性・魂といったものの資本の論理との一体化、後者による前者の包摂という現象がある。 p.87

生産性という神を崇拝する奴隷がここにいる。 p.90

新自由主義は、狭義には政策決定のイデオロギーであるが、その現実の影響力は、狭い意味での政治の次元をはるかに超えている。それは、人間の精神に浸透することによって一定の形而上学的な世界観を提供しているという意味で、ひとつの文化あるいは宗教に近づいている。 p.94

根源的な、深淵のごとき無関心 p.95

「日本社会は同調圧力が強い」とは、非常にしばしば指摘されてきた事柄であるが、一体われわれは何に同調させられているのか。その核心にあるのは、「敵対性の否認」にほかなるまい。 p.145

要するに、この国には「社会」がない。社会においては本来、その構成員のあいだで潜在的・顕在的に利害や価値感の敵対関係が存在することが前提されなければならない。しかし、日本人の標準的な社会観にはこの前提が存在しない。そうでなければ、「社会」という言葉と「会社」という言葉が事実上同義で使われるという著しい混乱が生じる(「社会人」とは実質的に「会社人」を意味する)はずがないのである。あるいは「権利」も同様である。敵対する可能性を持った対等な者同士がお互いに納得できる利害の公正な妥協点を見つけるためにこの概念があるのだとすれば、敵対性の存在しない社会にはそもそもこの概念は必要ない。ゆえに、社会内在的な敵対性を否認する日本社会では、「正当な権利」という概念が根本的に理解されておらず、その結果、侵害された権利の回復を唱える人や団体が、不当な特権を主張する輩だと認知される。ここではすべての権利は「利権」にすぎない。会社はあるが社会はなく、利権はあるが権利はない。まさにこうした「敵対性の否認」に基づく思考様式にどっぷりつかった層が今日の反知性主義の担い手となっているのは、実に見やすい道理である。pp.145-146

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